幸せの為に

人が幸せと感じて生きるには、承認欲求が満たされるのはとても大事なこと。

身近な10人から存在価値を認められれば、承認欲求は十分に満たされる。
10人が5人でもそこそこ満たされるし、特別心を寄せる相手ならば1人でも満たされたりもするのだけど、とりあえず10人。10人程度から存在価値を認められる人間になれれば、自分に自信を持って生きていける。一般的な個々人はこのレベルを目指せばいい。それで十分だし、これにしたってそうそう簡単に達成出来る目標でもない。

 


世の中には誰からも存在価値を認められない皆からの嫌われ者が沢山いる。単に利用価値でしか認められてない実のところ嫌われ者ってのも更に沢山いる。そこら中にいる。自分に向けられる嫌悪を日々感じて生きるその者達には心の平穏がない。幸せでもないだろう。そうならないことはとても大事。

 

人は全知全能ではない

人間は誰であれ完全ではない。全知でもない。
よって未来を完全に読めない。

だから大まかな計画しか立てられない。
その大まかな計画の通りにも行かない。
よって、適時のコントロールが必要。
コントロールとは、上げ下げとか増減とか強弱とか。
決して一方向ではない。


これだけで世の中のかなりの意見を論破出来る気がする。。。

モラハラの問題を考える前に 3

これらは悪いことなのか?

被害を受けたと感じている人にとっての加害者、
この加害者とされてる人は本当に悪いのか?

以下の場合はどうなのか、考えてみて欲しい。

 


■好き嫌い
好きはいいとして、嫌いな場合は扱いが嫌いな人に向けてのものとなる。
嫌そうな顔を向けるとか、挨拶がぶっきらぼうだとかしないとか、
無視するとか、悪口言うとか、、、

嫌いなんだから必然的にそうなる。好きな人と同じように扱うことなど出来ない。
これらはいけないことなのか?
嫌いな人であっても好きな人と同じように扱わねばいけないのか?

そうしないのは悪いことなのか?


もっというと、嫌いになってはいけないのか?
個人の好き嫌いを他者から強要されねばならないのか?
極めて個人的であるはずの好き嫌いという感情を、外部から規制するのか?
嫌いな人に向けての対応を禁じるというのはそういうこと。
私は禁じてはいけないと思う。その感情を表に出すことを含めて。
たとえ相手が嫌がろうと。

 嫌なら自身の嫌われる要素を正すとか、嫌われないようにするとか、
嫌われていることを受け入れて仕方ないと諦めるとか、やりようはいくらでもある。
にも拘らず、人の好き嫌いそのものを規制しようとするのか?

 

 

■能力差故の扱いの差
出来る者と出来ない者とでは扱いが変わってくる。
出来る者なら扱いは良いものになる。
出来ない者は、その扱いは当然悪いものになる。

これは好き嫌いの場合と違い、出来ないからといって特別悪い扱いをしていいわけではないと思うが、それにしても出来る者と同じ扱いには出来ない。出来ない者を信頼して出来る者と同じ仕事はさせられないし、褒めるより注意や指導が多くなるし、時には叱責もすることにならざるを得ない。
これは悪いことなのか? 仮にこれを悪いとした場合、では同じ扱いにするのか?
同じ扱いに出来るのか? 

扱いの差が能力故のものであれば、それが妥当なものであることを条件に許すべきだと私は思うが、如何?

 


■被害妄想
加害者側とされる者が特別なことを何もしていないのに、
被害者側が自身の思い込みで相手が悪いことをしていると思い込み、
被害を訴える被害妄想。
原因はほぼ全面的に被害者側にある。
悪いのは被害者だと思うが如何。


さて、これらにおいて加害者とされる側は悪いのだろうか?

被害妄想のケースは極端だとは思うけど、本気でこれで加害者責める奴らがいるからね。一応書いといた。

 


このシリーズは織田信成氏のモラハラ提訴を見て考えたものなのだけど、織田信成氏のブログを読む限り、濱田コーチの行動は嫌いな人に対してとる態度でしかないように思う。「最初は全く目線を合わせず挨拶を無視され、私の見える場所から陰口を叩かれ、私が近くを通ると話すのをやめるような行動が続きました。」って、これどう思う?

これをモラハラ扱いして禁じていいの? 私たちは感情のある人間なんですよ。

モラハラの問題を考える前に 2

嫌がる程度も人による

 

■嫌かどうかは考え方次第

どの程度嫌がるかは、その人の考え方による。
相手から何がしかの行為をされた時、
その相手の行為を悪い行為だと思えば、やられるのは凄く嫌だけど、
それを普通の行為だと思えば、大して気にならない程度にしか嫌だと思わない。
基本的にはこれで、通常はこれに程度が加味され、程度に応じて嫌さが加減される。

 


〇世間一般の基準で悪いかどうか

世間的に少々なら許されていると思う行為で、少々であるなら

嫌であっても仕方ないと割り切り、大して嫌だと思わない。後にも引かない。
世間的に度を過ぎたら許されないと思う行為で、度を過ぎてると思えば、
仕方ないなどと思わず、凄く嫌だと感じるし、後々まで尾を引く。
どの程度嫌かは、相手の行為がどの程度かによる。
ただし、その行為を一切ダメと思っているなら、程度は関係なくなる。
一切ダメと思っている行為をしてる時点で凄く嫌だと感じる。
これはもうちょっとだけでもダメで、ちょっとだけでも凄く嫌だと感じる。
この嫌は考え方からくる嫌悪感で、物理的な被害の有無はまったく関係ない。


上記はどれも、やられる側の人が自身でどのように思っているかが基準になってる。
「世間的に」とは書いているけど、実際の世間一般の基準とは別の、
その人自身が世間的にそうなんだと思い込んでるものが基準。
人によって、実際の世間一般の基準とはずれている。
中には極端にずれてる人もいる。

 

 

〇自身の考え的に悪いかどうか

自分の考えとして、こうすべきというものがあり、
これに照らして悪い行為だと思えば、嫌だと思う。
世間一般では許されている行為であっても、悪い行為だと感じて嫌だと思う。
逆に世間一般で良くないとされてる行為でも、悪いと思わなければ嫌だと思わない。

こちらは自分の考えだから個々人で相当にずれてる。
いわゆる世間一般とも大きくずれてる。
同じ人などいないと断言出来るほどにバラバラ。

 

 

■「嫌かどうか」ではなく、「許せるかどうか」

「嫌」で書いてきたけど、実のところは“許せるかどうか”。
許せるとなれば少々嫌だと感じても別段気にならない。
だから、通常なら嫌と感じることでも、イケメンなら嫌でないとか、
愛しい我が子のすることなら嫌ではないとかいうことになる。

良くある、ブ男なら絶対嫌だけど、イケメンなら嫌でもないってのは、
ブ男なら許せないけど、イケメンなら許してもいいと思えるってこと。
行為自体同じでも、許せるかどうかで扱いが変わり、嫌かどうかも変わる。

 


■その時の状況次第
おおらかな気分でいる時は、少々のことは許せる。少々のことでは嫌だと思わない。
気が立っている時は、ほんの些細な事が許せない。ちょっとしたことで凄く嫌だと感じる。気分次第。人とはそういうもの。

そして、人は置かれた状況で気分が変わる。
単に気分だけなら一時のものと自身で自覚出来るけど、置かれた状況からくる気分は、
長期間継続するものなので、自身に自覚がない。自覚がないので、自分自身の気分によるものだとの認識なく、嫌だと思う。それがたとえ全然気にするようなものでなくとも、悪い行為でなくとも、嫌だと思い、相手に怒りを抱く。

 

■その人の強さ、耐性次第

単純に、強い人は少々のことではビクともしない。

弱い人はちょっとしたことでダメージを受ける。

受け流すのが上手い人は嫌なことに対する耐性が高い。

受け流せず正面から受け止めてしまう人は耐性が低い。

どの程度嫌がるかはこれらで変わる。

 

 

こんな感じで、ある行為を嫌だと思うかどうか、どの程度に嫌だと思うかは
その人次第のところが多分にある。その人の考え方や状況次第で全然変わってくる。

上記の観点を考えずに被害者側の言い分だけで物事を判断したら間違える。
被害者が嫌がってるからというだけでモラハラとしてしまうのは早すぎる。

モラハラの問題を考える前に

モラハラをする原因
モラハラをする人は、

どんな行為が、相手にとって、“どの程度に”嫌な行為かわかってない。
この“どの程度に”かが大事。
単に相手が嫌がっているかどうかであれば誰でもわかる。
でもそれがどの程度かは、わかっていない。
だから「冗談のつもりだった」とか「遊びのつもりだった」とか
「相手も楽しんでると思ってた」なんてことになる。
“どの程度に”嫌な行為かわかってないことが原因。

 

 

■人の嫌がることを避けるシステム

・大雑把に説明

相手がどの程度に嫌がってるか?
そもそもこれはそう簡単にわかるものではない。
何故なら、物事の捉え方の個人差が凄く大きいから。
強弱での個人差はもちろん、種別での個人差も大きい。
また、同じ人でも時と場合で違ってきたりもする。
だから、相手がどんな人で、今その相手がどんな状況にあって、

どんなことをどのように感じるかまで知っていないと、

ある行為が相手にとってどの程度に嫌な行為なのか正確なところはわからない。

言うまでもなくこんなことはそうそう簡単にわかるわけもない。

(これは変えられない現実)

 

では、まったくわからないのかと言えばそんなこともない。
正確にはわからなくとも大体はわかる。
人は自身が生きてきた中で見聞きした経験で、
人がどういったことをどの程度嫌がるかという認識を持っており、
それを基準にすることで大体わかる。
(その認識が正しいかどうかはまた後の話)

 

だから個人差まで含めてわかっていなくとも、

初対面でも問題が起こらない程度の言動が出来る。

(これが出来ない人が問題ある人)


これが、人の嫌がることを避ける一般的な方法。システム。

 


・細部補足

付き合い方が密になってくると、相手のことがわかってくる。個人差の部分が少しずつわかってくる。わかってくることで、言動が初対面の時より踏み込んだものになり、相手がちょっとだけ嫌がることを敢えて言ったりやったりして楽しむなんてこともするようになる。この時人は、自身の中にある基準を相手に合わせて微調整してる。この人相手ならここまでやってもいい、この人相手ならこれは控えようというように微調整してる。
この微調整、いつも上手くいくわけもなく、時に失敗する。失敗して相手を怒らせたりする。その反応を受けて、再度の微調整を行い、相手を怒らせないよう言動を改める。
こういった微調整を繰り返し、よりトラブルの起こらない基準となる認識を作っていく。(これを個々人が、それぞれ自身の経験の中で行うので、基準となる認識は個々人で違ってくる)

 

以上は良し悪しとは関係のない人の言動の制御方法に関する分析。
このレベルから考えていかないと、モラハラ対策や、それ以前のモラハラの捉え方を間違える。

 

 

 

以下独り言

ダメだダメだばかり言ってたら何も出来なくなる。

 好き嫌いで対策を考えんな。

嫌でも必要ならやらなきゃ。

 

この世は天国じゃない。嫌なこと避けて生きていくなんて絶対出来ない。

そんな現実を受け入れて嫌なことにも向き合わないと、平穏な日常は得られない。

 

 

税金の捉え方

ベースの考え方はMMTです。それを出発点として考えたものです。
以下の税金の考え方は私個人のもので、MMTとは違ってます。

 


●国と民の関係
国は、まず自らが負担することで民に仕事やインフラを提供し、
民はその恩恵を受けて日々の生活を営んでいる。
この民の営みによって国は存続が可能となる。
国が民を生かし、民が国を生かす。
双方上手くやれば豊かになり、下手すれば貧しくなる。
場合によっては最悪死滅すらする。双方共に。これが国と民の関係。

 

 

●税金
国は民の生活を成り立たせる為に先払いした負担を負っており、
その負担分を回収する為に、民に返還を求める。これが税金。

 


●税額の加減
多く稼いだなら、それは国から多くの恩恵を受けているということであり、
その分多く返還する。つまり、多くの税金を負担する。

稼ぎが少なければ、それは恩恵を少なくしか得られていないということであり、
返還も少なくなるし、得る恩恵が生きていくのに十分でないとなれば、
不足分を補う為の支援金を国の負担で出すことになりもする。

 

 

累進課税と給付金
一人の人間が、必要以上に稼いでしまうと、
つまり、国からの恩恵を過剰に得てしまうと、
他方で十分な恩恵を得られない者が出てしまう。
これを抑制する為に、累進的な課税の増加を行う。

十分な恩恵を得られない者には支援しなければならず、給付を行う。
その原資を、恩恵を過剰に得てしまう者から収集するようにすれば、
恩恵の偏りを緩和することが出来る。

 


●各種の特別な税負担・税軽減
まず基本となるモデルがあり、
それに加えて、自らの為に特別な何かをする時は、
特別な分だけ他の人以上の特別な負担を負う。特別な課税を受ける。
また、
公共の為となる特別な何かをする時は、それ自体が負担を負う行為であり、
負担する分だけ特別に負担を軽減する。特別に減税を受ける。

 


●教育
国は、自らの存続の為に必要となる民を作らねばならず、
その為に、稼ぎを得る力を持たない未成熟な者に対し、
「まず自らが負担する」である先行投資を行う。教育育成の費用を負担する。

 

 

●インフラ整備
典型的な先行投資。国は「まず自らが負担する」で、インフラを整備する。
これによって民は、経済活動を含む日々の生活を営むことが出来る。

 


国によって民は生かされており、民によって国は存続出来ている。
それぞれが必要となる負担を負うことで両者は存在出来ているのであり、
税金はその負担の受け渡しに使われる道具。

 

 

■動機付けを目的とした税

たばこ税等、国が国民の行動を抑制したい場合に掛ける税。

これは税という仕組みを利用してるだけの、国の負担とか関係無い税。

税ではあっても、これは上記とは別物。

 

障害者に関する考え方

基本的な考え方として、
トータルとしての最大の労働力の発揮を目指す。
その為の試行錯誤での損失は許容する。容認する。


能力が高い者は高い者として、低い者は低い者として、
誰も切り捨てず、それぞれの力を最大限活用し、
可能な限り最大の成果を出すことを目指す。

 

その為に、現状では有効に使えていない低能力者の活用方法を研究する。
現状、マイナスの成果しか出せてない低能力者を、
どうやって活用するかを試行錯誤を繰り返して探り出す。
そこでの損失は将来の成果の為に許容する。
知識と知恵を得る為のものとして容認する。

 

研究課程においては、少しでも向上していれば良しとし、プラスの成果を出すことまでは求めない。将来的にプラスの成果が出せるよう進めていければそれで良しとする。

100年マイナスでも、100年後にプラスと出来れば、その後の100年200年で初期のマイナスが問題にならないくらいの成果が出せる。そう考えて、今のマイナスは許容する。現時点でそのマイナスが凄く大きく思えても、容認する。

 

障害者がもたらすマイナスは非常に大きく、それが個人に圧し掛かると容易に個人を圧し潰す。圧し潰された個人が成果を出せなくなることは言うまでもない。マイナスが貴重な労働力を圧し潰さないような対策を取らねばならない。それも含めての活用方法の研究をすべきと考える。そして、トータルとしてのより大きなプラスの成果を出すことを目指す。