男子生徒自殺、責める相手を間違ってる

◆福岡の中2男子自殺の件その他諸々、責任追及の仕方がおかしい。その事が責任の取り方をおかしくさせてる。おかしな責任の取り方を求められる為に、隠蔽をしようとすることになる。この悪循環が起きている。おかしいのは求める謝罪とその謝罪を求める相手。


担任教師の言葉でいじめを誘発し、一人の男子生徒が自殺した。誘発というのだから実際に自殺する程に追い詰めたのは他の生徒。であればたとえ担任教師の言葉が切っ掛けであろうと担任教師は他の生徒を叱るべき。自身の発した言葉については反省するにしても実際にいじめを行った他の生徒を叱らなければならない。自身の発した言葉については謝るにしても、男子生徒が自殺した事についてはいじめを行った張本人である生徒に向かって謝ってはいけない。自殺まで追い込んだのは担任教師でなく他の生徒なのだから担任教師の謝罪を受ける立場にはない。自殺した男子生徒に謝罪すべき立場であるのはもちろんだけど、クラスに責任を持つ担任教師に対しても謝罪すべき立場。担任教師が叱り、生徒は謝る。こうあるべき。

男子生徒の親に対してはこの担任教師は謝らねばいけない。自身の言葉とクラスの管理が出来てなかった事に対して謝らねばいけない。学校運営に責任を持つ校長に対しても謝らなければいけない。

校長はまず担任教師を叱らねばならない。そして調査を行い、調査結果を元に担任教師に責任を取らせる。また、このようなことが起こらないような対策を立てる。これらの報告を教育委員会にする。これが校長の仕事であり果たすべき責任。校長が男子生徒の親に対してすべきは担任教師に謝らせる事とその担任教師に対してどのような処分を下したかの報告。謝罪は気持ちの表明としてのものだけでいい。

県教委は校長の報告を受け、検証する。そして教育委員会としての対策を考え、他の学校に対して通達を出す。男子生徒の親に対しての謝罪はしない。お悔やみだけでよい。

文部省も県教委と基本的に同じ。報告を受け対策を考える。

男子生徒の親が求めていいのは上に書かれた事のみ。他の生徒からの謝罪、担任教師の謝罪、校長からの報告のこの三つ。謝罪には賠償を伴わせていいが、伴わせていいのは謝罪のみ。つまり賠償を求めていいのは担任教師と生徒のみ。


以上が本来あるべき形。かつてはこの形であった。これであれば校長も教育委員会も隠蔽することはなく事の顛末を詳細に調べる。何が出てきても自身が責任を問われる事はないし、逆に調べないと責任を問われてしまう。保身を考えるなら尚更調べようとすることになる。ところが校長や県教委に責任を取らせようとするから隠すようになる。調べれば調べる程自分の首を締めることになるから調べない。隠す。こうなるのは当然。

また校長や県教委に責任を問おうとするから肝心の担任教師がなおざりになる。有耶無耶になって大して責められない、下手したら形だけの責任しか問われないなんて事になる。 生徒に至っては全然責められない。逆に教師や校長からの謝罪を受ける始末。実際にいじめた生徒はきれいに逃げおおせてる。これではいじめた生徒は反省しない。反省も悔やむ事もなく、大して心に残ることもないかもしれない。「ちょっといじめたら自殺しやがった」ぐらいにしか思わないかもしれない。子供をあまり責めると心に傷を負うなんて気遣うのだろうが、人一人死に追いやったのだから心に傷を負うぐらいで丁度いい。少なくとも、もう二度といじめはすまいと思うくらいには心に傷を負うべき。


いじめた生徒を責める。叱る。
切っ掛けを作ってしまった担任教師を非難する。
クラスを管理しきれなかった担任教師の責任を問う。
これこそをすべき。


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もう悪循環に入ってる為に校長にしろ県教委にしろ隠蔽を図ってる。
こうなれば非難されても仕方ない。しかし非難は隠蔽した事に対してのみにすべき。
男子生徒が自殺した事についての責任は校長や県教委に対して問うべきではない。
これをやってるとますます隠すようになる。決して良くはならない。
皆安易に責任追求し過ぎてる。責任の追及の仕方を考え直すべき。



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