罰は救い。情状酌量はすべきではない。

情状酌量。私はこれに異議を唱える。
本当に罪を悔いてる者が減刑を望むだろうか?相手から許すと言われてもそれでは気が済まないと自らに罰を与え、償おうとするのではないだろうか?ドラマや小説ではそういう話はよくある。現実にだってある。ただ、本当に心から悔いるという事が稀にしかないのであまり無いが、まったく無いわけでもない。


何かの罪を犯した場合、罰はしっかり与えた方がいい。
加害者が相応の罰を受けたとなると被害者はそれで納得するしかなくなる。
いつまでも加害者を責め続けることが出来なくなる。
それ以上の罰を課すことを求める事が出来なくなる。
そんなことしてたら被害者の方がやり過ぎだと責められる。
加害者の方は罰を受けることで償いが出来る。
罰を受ける事で自身の冒した罪の重さを理解する。
罰を受け終えることで償いを済ませたと思えるようになる。
罰を受けてるとなれば人からそれ以上に責められなくなる。
ちゃんと罰を受けたという事で許されるようになる。
つまり、罰を受けるというのは加害者にとって救いとなるもの。

その罰を軽くしてしまうと被害者は納得出来ない。
いつまでも責め続けることになるし、より多くの罰を与えようとするようになる。
被害者はその事ばかり考えるようになりそこから抜けられなくなる。
加害者は罪の重さを理解出来ずまた同じ罪を犯すだろうし、被害者から責められるし、
しっかり罰を受けたとみなされないから世間からも許しを得られない。
被害者も加害者もいつまでたっても苦しみから逃れられない。

情状酌量で罰を軽減された場合も同じ。むしろもっと悪い。
被害者にも世間にも加害者の事情なんて関係無い。
自分に関係無い加害者の事情で被害者にされたなんて被害者には何の慰めにもならない。
被害者は自分には関係無いと叫びたくなるだろうし、加害者の言い訳としか受け取れない。
言い訳してると思えば余計に腹が立つ。その言い訳が認められたとしたら尚更腹が立つ。
加害者は情状が認められた事で自分は悪くなかったのだと思ってしまう。
自分は悪くなく、自分の置かれた状況が悪かったのだと思ってしまう。
それが認められたのだと思ってしまう。
自分をそのような状況に置いた他のもの(大抵は誰か)が悪いのだと考えるようになり、
他のものを恨むようになる。もちろん反省などしないし悔い改めることもない。
状況の所為にしてまた罪を犯す事にもなる。今度は自分が悪いと思わず罪を犯すことになる。
周りが悪いのだといって罪を犯すことになる。新たな被害者が出る事になる。


情状酌量を認めてしまうと誰も納得出来なくなります。
それで助かるはずの加害者も新たな恨みを抱いて納得出来なくなるのです。
これでは誰にも救いがありません。恨みや不満が拡大するばかりです。
情状酌量で罰を軽くすべきではないのです。
事情を汲んであげるのであれば罰を受け終えた後、再出発を手助けしてあげればいいのです。
そこで考えてあげればいいのです。


罰を科す事は被害者にも加害者にも救いとなります。
罰は苦役であると同時に救いなのです。
罰を軽減してはいけません。
救われるチャンスを奪うことになります。
救われなくなります



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