保有の是非を後回しにした核論議を
私は日本の核保有には反対してた。
使うと思わせられない核では抑止力にならないと考えたから。それより使うと思わせられる通常兵器の強化の方が抑止力になると考えたから。また、核の抑止力に頼って軍事を疎かにしてしまうのではないかと考えたから。通常兵器削って核を持とうなんて言う人もいるし、核を持てば攻撃される事はないと言う人もいる。まるで核さえあれば軍隊なんて必要無いかのように言う。これで核なんか持ったら軍事音痴がますます悪化する。これが理由1。
核を使えばどうなるかわかってるのかと問うていくと抑止の為に持つのだから使うことはないという人もいれば、逆に少しでも攻撃されたら即核での全面攻撃なんて簡単にいってしまう人も居る。核をどう使うかというプランが全然出来てない。プランが出来てないから覚悟も出来てない。これでは相手に核を使うと思ってもらえない。核は持ってるだけでは抑止力にはならず、使うと相手に思われて初めて抑止力になる。だから核を持ったら核を使えるだけの狂気を示すか使うぞと言い続けるかしないとならない。使えるだけの狂気を示せるかどうか、核を使うぞと言えるかどうか。どちらも日本に出来ると思えない。日本の文化として出来ると思えない。これが理由2。
使う気なく核を持つと、核を使いたくないから争い事を避ける弱腰外交をするなんてことにもなりかねない。核保有によって自身が抑止されてしまうなんて馬鹿げた事になりかねない。こうなるくらいなら持たない方がいい。これが理由3。
この三つの理由から核保有には反対だった。しかし、あまりに核保有反対が多いのでなんだか核保有すべしの主張がしたくなってきた。その反対の理由が主体性の無さや争いを厭う平和主義的なものばかりなので異議を唱えたくなってきた。今後は核保有反対を引っ込めて、核保有の賛否は置いといて、敵の核にどう対抗するかで主張しようと考えた。
で、思ったのが、核保有の賛否を脇に置いての核にどう対抗するかの議論こそが本当に必要なものではないかという事。賛成にしろ反対にしろ核に囚われ過ぎではないかと。必要な武器の威力が核であれば核保有すればいいし、必要な武器の威力が核でなくてもいいものであれば核は不要。そういっ必要な武器の威力を割り出す議論をすべきではないかと思う。核保有の是非は後回しでいいのではないかと思う。後回しにした方がいいのではないかと思う。
今やってる核論議を止めろとは言わないけど。