一つの集団の基準は一つ、多文化共生は無理

一つの集団の中では基準は基本的に一つです。
同じ基準を持つ者達の集まりが一つのまとまった集団です。


一つの集団の中では基準は一つでなければまとまりません。違う基準を持つ者が同じ集団に入ってしまうと違う基準を持つ者と衝突します。衝突し、基準の違いで分かれて互いに争うようになります。一つの集団の中に二つの集団が出来て、その二つの集団が互いに争うようになります。一つの集団の中の基準は一つなので、どちらの基準を集団全体の基準とするかで争うことになるのです。この争いは一つの集団の中に異なる基準がある限り収まりません。争いを収める方法は三つ。


①一方の基準を全体の基準とし他方は消し去る。

②双方の基準を擦り合わせてどちらの基準とも違う新たな一つの基準を作る。

③同じ基準を持つ者同士が集団を形成し、二つに分かれ、互いに干渉しない。


①は一方の一方による弾圧によって行われます。弾圧される方は嫌ですから抵抗して争いが起きます。その抵抗までをも完全に押さえ込んでしまえば争いは収まります。


②は双方の話し合いによって行われるものです。どちらの基準とも違うのですから双方抵抗する者が出てきますし、どちらの基準とも違うのですから双方共に譲歩しなければなりません。双方が譲歩してどちらの基準とも違う新たな一つの基準が出来れば争いは収まります。しかし譲歩なんてものはどちらもしたくないものです。そう簡単には行きません。どちらか一方が譲歩を拒めばもうそれだけでこのやり方は成立しません。行き詰まって①か③を目指すことになります。


③は分離独立です。どちらも自分達の基準を変えなくていいので一番いいと思うのですが、元々一つの集団で混在していたのですからどこで分けるかの問題が出てきます。この問題を巡って争う事になります。それでも分かれてしまえばそれぞれが自分の基準でまとまった社会を作ることが出来ます。集団内部での争いは収まります。
集団の外に争った相手が存在し続けるので集団の外に争いの種は残るのですが、相互不干渉とすれば争う必要もないので争いは収まります。


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集団の一つの基準とは詰まるところ文化です。
一つの集団に複数の文化を入れると争いが起こります。潰し合いが始まります。
一つの場所での多文化共生は無理です。
多文化であれば可能なのはそれぞれ分かれて住む並存です。
一つの場所での共生であれば可能なのは一つの文化での統一です。
一つの集団に複数の文化を入れると必ずこのどちらかを目指す事になります。
必ずです。絶対です。例外はありません。(但し並存の仕方は色々ですけど)

可能なのは多文化並存か文化統一しての共生です。
このどちらかです。多文化共生は不可能です。


多文化共生を主張してる人の意見の中身は一つの文化での統一です。
文化の尊重と言ってはいますが実際やってるのは文化の破壊です。
既存の文化を破壊して新たな文化を創造してその新たな文化で世界を統一する。
これが多文化共生を主張してる人の意見の中身です。
目指すのが統一ですから取り込みに熱心ですが、
目指すのが統一ですから新たな文化を押し付ける事にも熱心です。
個々の意見の尊重なんて口では言ってますが実際は尊重しません。
考えを変えて合わせる事を絶対的に求めます。
そうしないと文化が保てないのでそうします。
これがいわゆる左派、革新派と呼ばれる人の考え方です。


右派はこの逆です。
既存の文化を守ろうとします。それを否定する新たな文化なるものを否定します。
自国の文化を尊重するだけに他国の文化も尊重します。ただし勝手にどうぞという尊重ですが。
目指すのは世界の統一でなく自国の独立です。個々に独立しての多文化並存です。
自国文化で世界統一なんて考えません。考えはするかもしれませんが直ぐに止めます。
自国の文化を守りたい為に他の文化の流入を嫌うからです。
一緒になるより距離を置くことを望むようになります。
個々の意見は尊重します。但し違えば出ていけと言います。
他所でやる分にはどんな考えでもいいと許すけど、同じ場所では許しません。
考えを変える事を求めない代わりに出ていくことを求めます。
そうしないと文化が保てないのでそうします。
これがいわゆる右派、保守派と呼ばれる人の考え方です。


右派左派いずれも一つの集団の文化(基準)は一つです。
一つの集団の基準は一つ。
一つを目指して潰し合い、一つになった時に安定する。

これは変えられない原則です。



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