多文化共生でなく文化融合。

これは「【コメント返答(2)】文化の「無常」を受け止め、共生のための新たな社会変革を」へのレスです。



安倍政権だけでなく、右左関係無く、誰もが統一しての共生を望んでます。あなたもです。
あなたが合理的且つ人道にかなった道と考える「共存のための新たなルールを定める」も新たなルールで統一しての共存です。


違いは一つの集団として暮らすか、別々の集団として暮らすか。考えを変えて変えさせて一緒に暮らすか、考えはそのままに別々に暮らすか。あなたは考えを変える事を求めてます。誰にも変容を求めてます。あなたが求めてるのは多民族・多国籍・単一文化です。


別角度からの話をします。
大枠のルールだけ決めてそれ以外は干渉しないという共存の仕方もあります。
各国から人が集まってのパーティーをイメージすれば分かりやすいでしょう。
・国籍が違い民族も文化も違う多様な参加者。
・パーティー会場という同じ場所にいる。
・共通のパーティーマナーに皆が従う。
・互いに尊重。
そして和気藹々と交流。
あなたのイメージする多文化・多民族・多国籍社会はこれではありませんか。
私もこれを理想とするのです。だからこそ右派なのです。
これは左派でなく右派のイメージするところです。右派の姿勢です。


このパーティーでは相手国の風習やら習慣にケチつけたりはしません。一方の風習を相手に強要したりもしません。同調も求めません。しかし交流はあります。試しにやってみませんかとかちょっとマネてみようとかはあるでしょう。が、飽くまで任意です。良ければ取り入れもします。合わないなと思えば取り入れません。宗教的に駄目でとか習慣に反しますのでと言えばそうですかとそれ以上には求めません。それは干渉してはいけない所だとどちらもが心得てるのでそれで機嫌損ねるなんてこともありません。そういった不干渉を守る事で異なる者同士が和気藹々とパーティーを楽しめてるわけです。大事なのは不干渉です。この不干渉が尊重です。「互いの内情には干渉するな。押し付けるな。」右派の姿勢です。刺激しあっての変容はありますが、変容を求める事はありません。


>sadatajpさんは、「自国の文化を守りたい」と書かれていますが、その「自国の文化」ですら、実は、外部からのさまざまな影響を受けて絶えず変容しつづけてきたものなわけです。


上記のような交流によっての、影響を受けての変容です。
そういった変容はちっとも構いません。押し付けられるのが嫌なのです。



>一方で、日本社会の経済的繁栄を基礎づけている日本人や日本企業の活動が、自動車にしろアニメにしろ、諸外国においてその国の伝統文化を破壊あるいは変容させることによって成り立っている。


これも交流による変容です。押し付けてはいません。



>その変容を無理に抑えようと望むことは、仏教的に言えば、「無常」の中で「執着」を生むことに他なりません。


変容を抑えようとはしてません。


>>考えを変える事を求めない代わりに出ていくことを求めます。
>と、「他文化の排斥」を求めるようになり、他者をも苦しめることになります。

外での存在は許すのですよ。



>しかし、「右派、保守派と呼ばれる人の考え方」をとらない私は、上で述べたような理由から、多文化・多民族・多国籍な日本社会においては、「共存のための新たなルールを定める」ことこそが、最も合理的かつ人道にかなった道だと考えます。その道をこそ進むべきだと、これからも声を大にして訴えつづけるつもりです。

その道にあるのは思想・信条の自由の否定です。外での存在をも許さない思想・信条の自由の否定なのです。あなたは変容を迫られると書いていますよね。そこにあるのは変容しないままは認めないという姿勢です。その変容も自由ではありません。求めてるものは同じものへの変容です。つまりは一つ。その一つ以外存在を許せない。それがあなたの姿勢。これは思想・信条の自由の否定です。違いますか?

あなたに「考えを変える事を求めない代わりに出ていくことを求める」という考えを認められますか?認められないでしょ。変容を迫るのでしょ。この思想・信条をあなたは許してないのですよ。
ちなみに私は思想・信条の自由は制限付きのものと考えてます。思想・信条の自由を否定してるからといって責める気はありません。


右派は変容は求めません。不干渉です。「出ていけ」というのは干渉する者に対してです。干渉して来ないなら自分達とは違う者として存在を許します。それすら追い出す程偏狭ではありません。不干渉。この言葉をあなたはどう考えますか。
あなたの変容を求める姿勢は上記のパーティーではマナー違反です。


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>そして、いつか、マイノリティの側が感じている「違和感」を超克する何かが生まれたとき、「多文化共生」という言葉が、真に輝きを発することになるのだと思います。


それは多文化の融合です。複数の文化が融合して一つの文化となった時に違和感は消えるのです。その時には「多文化共生」という言葉は過去のものとなります。文化は一つしかなく、一つだから共生とも言えません。「多文化共生」という言葉は意味を失います。

違いは違いとして認め、不干渉を節度とする多文化並存を私は望みます。



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