核の議論に欠けてるもの

核の議論に欠けてるもの。
それは核兵器を撃ち込まれた時の事。


核抑止論は撃ち込まれた時に報復することをベースに構築されてる。
撃ち込まれた時に。つまり撃ち込まれる事が前提にある。


核を撃ち込まれれば当然何十万だか何百万だか何千万だかは死ぬ。それも含めての前提。その時にどうするか? これを考えて、その用意をしておく事が核抑止になる。核を撃ち込まれて大勢が死んで、国土が、経済が、大打撃を受ける事を前提にしての備えが核抑止になる。


保有すれば撃たれない。そう考えて核を撃たれた時の事を考えない。
核さえ持てばそれで核抑止になると、核を撃ち込まれる事を考えない。
そんな人達が核保有の為の核議論をやってる。
これでは核抑止にならない。有効な核抑止論にならない。
こんな考えで作った核報復システムは自分を縛るだけ。
自分達の持つ核を使いたくない為に、核の脅しに屈するなんて馬鹿げたことになる。


核抑止は核を撃ち込まれる事を前提として考えないといけない。
でないと核抑止にならない。核の脅しに対抗出来ない。

「撃ち込みたいなら撃ち込め。その時にはこちらはこうする。それでよければ撃ち込め。」


核抑止の議論はこれを言えるようにする為の議論でなければならない。撃ち込まれることは大前提。

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核を撃ち込まれた時というのは最高度の非常事態。普通なら許されない事も許される。普通なら認められない事でも認められる。通常時の考えで核を撃ち込まれた後の事を考える必要はない。通常時の考えに縛られてる事はない。撃ち込まれた後であれば大胆な行動が可能になる。これも核抑止を考える時の前提。