義務教育に“等しく”は馴染まない

■【新閣僚に聞く】渡海紀三朗文部科学相
(産経web-sより抜粋)
 −−教育現場に競争原理を持ち込むことは

 「教育は市場原理になじまない。進めていくと必ずひずみが起こり、格差を生み出し、社会を不安定にする」

市場原理に馴染まないのではなく市場原理主義に馴染まないだけ。
市場原理主義だと負けた側は潰れるに任せてしまう。
この潰れるに任せてしまうという部分が教育に馴染まないだけ。


潰れるに任せてしまわなければいいんで、であれば負けた側に勝った側のノウハウを取り入れて負けた側を立て直せばいい。それだけでひずみが起こらないように出来る。格差を埋めていくことが出来る。極めて簡単な理屈。馬鹿らしいくらいに簡単な理屈。
ところが何故か多くの人(教育問題に関わる人)がこの発想に行かない。教育カテを覗いたりそこで話してみたりしたところ、どうやら劣る者に特別に手を掛けるという発想がないらしい。全ての生徒に等しく教育を施さねばならないという考えが根底にある為に、“等しく”に囚われてる為に、特別に手を掛けるという発想にいかないみたい。

上記の大臣の話は生徒でなく学校を対象としたものだけど、基本的には同じで“等しく”という縛りに囚われてる。


事は教育。
劣るなら特別に手を掛けて引き上げてやればいいじゃん!


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義務教育が目指すところは“等しく”ではありません。
憲法にある「等しく教育を受ける権利を有する。」の“等しく”は『権利を有する』に掛かる言葉であって、『等しい教育』ではありません。義務教育の意義は誰もが社会生活を営む上での最低限の学力を身に付けさせるところにあります。読み書きが出来ないとか基本的な計算が出来ないとかの無学の者をなくす為にあるのが義務教育です。そういった趣旨で作られたのが義務教育です。ですので義務教育で目的とすべきは全ての子供に最低限以上の基礎学力を身に付けさせることです。


最低限以上であればいいのです。
なので極端な話最低限以上に出来る子なんて放っておいていいのです。
個々の能力に応じて更なる高みを勝手に目指させればいいのです。
まあ大人が引き上げたり押し上げたりしたって構いませんが。


ともかく「全ての子供に最低限以上の基礎学力を」ですから
力を入れて教育しなければならないのは最低限以下の子供です。
本当に力を入れなければならないのはこの最低限以下の子供です。
そうしてこの子供達に社会生活を送る上での最低限の基礎学力を身に付けさせる。
理解力の差を無視してどの子供にも等しくなんてやってたのではこの目的は叶いません。特別に力を入れて教育しないと目的は叶いません。義務教育こそ個々の子供の能力に合わせた特別の手当てが必要な分野です。



改めて書くまでもなく誰もがわかってるはずなんですがねぇ、感覚的には。






以上は学力に限定した話。集団生活での社会性を身に付けるとかの意味合いもあるので出来る子は放っとけばいいというのは正しくはありません。あくまで学力に限っての話です。


追伸:
ちなみに私はエリート教育には大賛成です。下は最低限以上で揃えねばなりませんが、上はいくらばらけたって構いません。出来る子供はどんどん上を目指せばいいんです。並の教育では物足りないでしょうから特別に高いレベルの教育を受ければいいんです。「学問の自由」ってことで思うようにやればいいんです。やれば出来るのに周りに遠慮してやらないなんてことする必要ありません。周りもそんな「学問の自由」を邪魔するようなことしちゃいけません。



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