判断基準の『構築』『再構築』

「外交と安全保障をクロフネが考えてみた。」の「KなんてYめなくていい。」に触発されてのものの続きですが、もうそれはあんま考えず「空気を読む」の考察だと思って読んで下さい。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  


■基準が外にある故に独りよがりでない価値観や哲学を構築する。

>”空気を読む能力を重要視する社会”においては、善悪などの判断基準を、価値観や哲学として自分の内面に構築するというよりは、社会が作り出した空気(=マニュアル)、つまり他者に任せてしまいがちになる。


これに対して他者に任せがちでいいんだという事と、それ故にこそ独自の価値観や哲学といった善悪などの判断基準を自分の内面に構築するんだと言いたくて書いてます。「空気を読む」のは良いことなのだと言いたくて書いてます。
まずは『構築』から。構築には二種類あるのだというところから。


◆新たに作り上げる『構築』
日本人他国人に関わらず、ほとんどの人は「善悪などの判断基準を、価値観や哲学として自分の内面に構築するなんてことはしない。断片的な哲学的思考は誰でもするだろうけど、独自の価値観や哲学を構築する程に自身の哲学的思考を突き詰めていく人なんてホンの極一部の奇人変人。ほとんどの人は既に構築された価値観や哲学をそのまま取り入れて自分の価値観としてる。何故そうなのかを突き詰めて考えて理解した上で自分の価値観としてる人はほとんどいない。特に宗教や思想を原理主義的に信奉してる人はそれをしない。ある価値観を何故そうなのかと問われても受け売りでしか答えることが出来ないのがその証拠。自身で考えて価値観や哲学を構築していない証拠。とは言え別にそれを悪くいうつもりはない。ほとんどの人がそうで、それが普通なのだから。


◆取り入れての再構築という『構築』
ほとんどの人は既に構築された価値観や哲学を“そのまま”取り入れて自分の価値観としてる。取り入れて“同様のもの”を再構築して、それを自身の価値観や哲学として自身の中に据えて、それに照らして物事を判断する。判断基準とする為に自身の中に再構築という意味での、「善悪などの判断基準を、価値観や哲学として自分の内面に構築する」。こちらの構築は世界のほとんどの人がする。特に宗教や思想を原理主義的に信奉してる人がこれをする。
しかし「空気を読んでその場のやり方に合わせる」という人の場合はこのような価値観や哲学の構築はしない。判断基準として適用するのは外にあるその場の基準で、自分の内面に構築された基準は使用しないから。


”空気を読む能力を重要視する社会”においては、善悪などの判断基準を、価値観や哲学として自分の内面に構築するというよりは、社会が作り出した空気(=マニュアル)、つまり他者に任せてしまいがちになる。

これで言ってる「構築」は取り入れての再構築という『構築』。
善悪などの判断基準を社会が作り出した空気に任せてしまいがちになる。その通り。
問題はこれが悪い事なのかどうなのか。


※以降は二つの「構築」を区別する為に再構築という意味での「構築」は『再構築』と書く。新たに作り上げるという意味での「構築」はそのまま『構築』と書く。


◆『構築』と『再構築』による違い
『構築』の場合は自ら考えて独自の善悪などの判断基準を作り出す。自ら考えて作るのであるから作り出すまでには時間が掛かる。それが出来るまでは自身独自の“完成された判断基準”は持たない。“完成された判断基準”は。
だけど中途の未完成な判断基準は持ってる。曖昧さを多く含み判断基準のはっきりしない未完成の判断基準は持ってる。また、自ら考えて作るとは言ってもゼロから作り上げられるものではないので、外からの情報を取り入て作る。何が良いのかわからない状態で色々なものを見て、取り入れてもみて、考察を重ねて取捨選択し、作るということになる。
年と共に徐々に出来上がっていくのだから未完成の程度は年齢で変わっていく。若年時は使い物にならない程度のお粗末な基準。それが年齢を重ね、時を重ねることで徐々に完成度が上がっていく。
若年時にはお粗末な基準で出鱈目に行動し、周りから奇人変人と言われ困った奴として扱われる。完成度が上がってくると出鱈目さはなくなるが、今度は独自である事が災いして世間との基準のズレからやはり奇人変人として扱われる。変わり者として扱われる。並外れてすばらしい人という場合もあるが、変わり者であるのは間違いない。ただし自分が他の人と違うことを自覚してるから他人が自分と違ってても大して気にしない。その独自の基準を他人に押し付けることもしない。わかってもらいたいとは願うが押し付けまではしない。変人扱いされ続けた体験から他人に簡単にわかってもらえるなんて幻想は抱かなくなってるから。これが『構築』の場合。


次に『再構築』の場合。
『再構築』の場合は外にある善悪などの判断基準を取り込んでそのまま使う。外にある“完成された判断基準”を取り込むので早い段階で再構築が完成する。完成形をそのまま取り込んでるので大幅な変更はもちろん部分的な変更も困難。自分で考えて作ったものでない為に、どこが変えてはいけない重要なもので、どこなら拘ることなく融通利かせても良いところかがわからない。わかってない上に変更も困難となると異なる基準で話す人の話に耳を貸すことが出来ない。わずかにも受け入れることは出来ないし説明も出来ない為にそうなる。結果、話も出来ない融通の利かない頭の固い人ということになる。


もっとも同じ基準を持つ者達の中にいれば全然問題は起こらない。『再構築』された基準の大元は自身の生きてる社会の基準だから大抵は同じ基準を持つ者達の中にいる。よって異なる基準で話す人と話をする必要は無く融通利かせる必要もない。むしろ融通など利かせない方がいい。その方が周りからは真面目だと思ってもらえる。異なる基準の人がいたとしてもその人には「間違ってる」と言い放てばそれで済む。自分と同じ基準を持つ周りのほとんどの人は自分に味方してくれる。自分の側を正しいと言ってくれる。「頭の固い人」でなく「良識ある人」と言ってくれる。だから異なる基準の人を非難してればそれで済む。問題は起こらない。皆から受け入れられ、自分は正しく当然のことをしてるのだと信じて堂々生きていける。


自分は正しく当然のことをしてるのだと信じてるだけにこちらは自分の基準を人にも押し付ける。異なる基準の人には「間違ってる」と言い、直せと言いつつ押し付ける。間違ったことをしてる人が許せなくて、それではいけないと自身と同じ基準を相手にも持たせようとする。
これが『再構築』の場合。


この場合当人には押し付けてる気はない。間違ってる人を正しく導こうと善意でやっている。同じ基準を持つ周りもそういった正しい行いだと見る。それで相手に同じ基準を持たせられたら皆の基準は揃いそれでその基準で動いてる社会は上手くまとまるのだからその社会においての正しい行いであるのは間違いない。同じ基準で統一された社会ならこれで何の問題も無い。『再構築』で全然問題ない。実際これが普通。上記では頭が固いと表現したが、基準を守るのだから普通は好ましく思われること。融通が利かないというのも基準を守るのだから普通は好ましく思われること。上記の押し付けも普通に言えば指導とか教育。普通の社会はこれでまとまってる。これが普通。



◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  

まだ続きますがとりあえずここまで。
独自の『構築』をする人は極まれで、ほとんどの人が外部の判断基準を取り込んでそのまま使う『再構築』だということと、『構築』の場合と『再構築』の場合でどのような違いがあるかわかってもらえればそれでいいかなと思います。

関心を引き留めておく為に先にいうと、空気を読む日本の文化は『構築』です。正確には誰もが『構築』を行える文化です。それも奇人変人になることを避けつつの『構築』です。空気を読むことでそれを避けてます。世界のほとんどの国は『再構築』です。一度『再構築』を行うともう『構築』は余程のことが無い限り出来ません。『再構築』を行わない空気を読む日本の文化は人の『構築』を促します。


日本には『再構築』を可能とする明確な基準ってないっすからね。呆れるくらいに無い。尽く曖昧。これが『構築』を促します。