独りよがりでない価値観や哲学の構築

>”空気を読む能力を重要視する社会”においては、善悪などの判断基準を、価値観や哲学として自分の内面に構築するというよりは、社会が作り出した空気(=マニュアル)、つまり他者に任せてしまいがちになる。

これに対して他者に任せがちでいいんだという事と、それ故にこそ独自の価値観や哲学といった善悪などの判断基準を自分の内面に構築するんだ言といたくて書いてます。「空気を読む」のは良いことなのだと言いたくて書いてます。
「基準が外にある故に価値観や哲学を構築する。」までが前回。今回は残りの“独りよがりでない”の部分です。


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空気を読む文化の日本人は自身の内面にある基準は曖昧なものしか持ってない。だから悩む。考える。自分探しなんてことをしたりもする。そしてもっと曖昧でない価値観や哲学を構築しようとする。個々人がこれを行なう。


■構築の方法
個々人が行う値観や哲学の構築はゼロから行うわけではない。自分の経験から周囲の基準を学び自身の中に再構築しようとするところから始まる。周囲の行動を見聞きして、自身でもその基準で行動してみて、そこから周囲の基準の意味を知り、自身の基準としてそれを取り込み構築する。ある基準で行動することの良さは経験してみないとわからない。経験して知って、自身の基準としてそれを取り込み構築する。


周囲の基準がある決まった一つのものであれば、それを丸ごと取り込みそのまま複製しての構築という『再構築』を行う。それで済む。しかし周囲の価値観が一つでなく複数であればそのまま取り込んでの『再構築』というわけにはいかない。それぞれの価値観に整合性がなく、一つにまとめてしまうと沢山の矛盾が発生してしまうから。
複数の内の一つだけに絞り込んで『再構築』してしまえば簡単なのだけど、場ごとに合わせることを求められる空気を読む文化の中ではそれは出来ない。複数の価値観を使い分けることを求められる。出来なければ非難を浴びる。除け者にもされる。除け者にされず周りに受け入れてもらって生きていくにはその場ごとの基準をその場ごとの基準として複数『再構築』する必要がある。よってそれを行う。
その場の周囲の行動を見聞きして、自身でもその基準で行動してみて、そこから周囲の基準の意味を知り、自身の基準としてそれを取り込み再構築する。それを複数再構築する。そして使い分ける。


複数再構築し使い分けるとはいえやはり一人。人格は一つ。芯となる自身の基準を構築しないわけにはいかない。それがないと自分が自分を捉えられなくなる。アイデンティティー喪失ということになる。不安で仕方なくなる。自分探しの旅に出たくもなる。よって複数再構築したものとは別に自身独自の『構築』を行うことになる。構築の方法は『再構築』でも『構築』でも一緒。
周囲の行動を見聞きして、自身でもその基準で行動してみて、そこから周囲の基準の意味を知り、自身の基準としてそれを取り込み構築する。
しかし経験してる基準が複数である為にこれがもっと複雑になる。
自身が見聞きし経験もした複数の基準から複数の基準の意味を知り、その複数の基準を融合や取捨選択を行って構成し直して自身の基準というものを作っていく。


融合や取捨選択を行なうとは言ってもこれは簡単には出来ない。整合性なく矛盾すらする複数の基準を融合するのは極めて困難。取捨選択するにしてもそれぞれの意味を知りその良いところを知ってるからそうそう捨てられもしない。選択も困難。そういった困難さの為に自身の基準を暫定的なものとして作るのが精々となる。暫定的ではあっても自身の基準にはなるしアイデンティティーともなるのでこれでとりあえず手を打つ。日常に追われてそうそう考え込んでもいられないからとりあえず。ただし暫定的な基準でしかないから絶対的な自信は持てない。

また複数の基準を経験してるところから一つ重要な事を学んでもいる。違う基準にも意味があり良さが有り得るのだということ。同時に並び立たない複数の基準での経験でそれぞれに良さがあることを知れば別の基準にだってそういった良さがあるのだろうと類推するようになる。まだ考慮に入れてない未知のより良い基準があるのではないかと思うようにもなる。ますます暫定的なものになる。自分の基準が絶対に正しいなんてとてもではないが思えない。


・複数の基準のそれぞれの良さを知ってる。それも体験として知ってる。
・自分自身の基準は暫定的なもので絶対的に正しいと言い切る自信がない。
・自身の知らない取り入れるべきものが他にもあるのではないかと思う。


これだけ揃えば独りよがりになどなれない。
外の基準を使う空気を読む文化。
外の複数の異なる基準を使う為に確定した基準が作れず基準が曖昧になる。
基準が曖昧で確立していない故に価値観や哲学を構築する。
複数の基準を使い、その良さを知った上でそれを基に価値観や哲学を構築する。
よって、
「基準が外にある故に独りよがりでない価値観や哲学を構築する。」
となる。証明終わり。
上記の文についてがですけどね。ただこの文は反論として書いたものですので微妙に正しくありません。ここで書き直させてもらいます。
「外の基準を使う故に独りよがりでない価値観や哲学を構築しようとする。」
こちらがより正しい表記。「構築する」でなく「構築しようとする」です。決して完成はしないのです。日本で確立した思想や哲学が生まれない所以です。果てしなく試行錯誤が続けられ変わり続ける永遠の未完成。それが元々の日本人の哲学。

「空気を読む」の関連ではまだ続きます。



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■ついでに「独りよがりな価値観や哲学」について。
一つの基準の社会で生まれ育ってもその基準をそのまま取り入れての『再構築』はなかなか出来ず多少変化させての『再構築』となるのが普通。一つの基準しかない社会で何故そうなるかといえば社会の基準とは別に自身の感情を律してる基準があるから。個々人で違う生まれつきの資質・性質といった個性があるから。これとの兼ね合いでそのまま取り入れての『再構築』がなかなか出来ない。多少のアレンジを加えることになる。
また、ギャップを感じて周囲の基準での『再構築』が出来ず別の基準を作り出そうとする場合もあったりする。このギャップも自身の感情を律してる基準と社会の基準との違いからきてる。社会の基準を受け入れられなくてギャップを感じる。社会の基準を受け入れられないからギャップを感じるのであるからこの場合社会の基準を否定し拒否することになる。残るのは自身の感情を律してる基準。個々人で違う自身の感情を律してる基準。我侭だったり身勝手だったりする個人的感情を律してる基準。これを追い求める。これを満足させるものを追い求める。そして個人的感情に基づいた身勝手で独りよがりな価値観や哲学を作り上げる。


どの社会の基準も、どんな場の基準もそこには意味があり良さがある。それを認められず真理を求めて思想にふけり、独自の思想を構築しようなんて奴が作り出すのは大抵これ。
どの社会の基準も、どんな場の基準も、複数の人間の関係のバランスを取ろうというものであるから必ず個々人を縛る要素が入ってる。個々人に何かを強いる要素が入ってる。外部の基準を否定し拒否する人が拒否してるのはこの縛る要素と強いる要素。その個々人を縛る要素と強いる要素を嫌って独自の思想を構築しようなんて奴が作り出すのは大抵これ。身勝手で独りよがりな価値観や哲学。これを解きほぐしていくと自身の個人的な感情しかそこにはない。良い思いしたい、楽したい、好き勝手したい、嫌なことはしたくない(自分が)。これしかない。こういのを独りよがりと言う。

自分で作らず他の人の作った個人的感情に基づいた身勝手で独りよがりな価値観や哲学を取り入れてる場合もあるけど、元が独りよがりな価値観や哲学なのだから独りよがりと言われることになる。



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