サヨウヨ対立、キーワードは罰

ばつ 1 【罰】


社会的規範を犯した者や倫理的・宗教的規範に背いた者に対して与えられる制裁。こらしめ。しおき。
「―を受ける」「なまけた―だ」
                          goo辞書より


ウヨクとサヨクの対立の大元になってるのは、好ましくないことを行った者に対して罰を与えることを良しとするかしないか。



好ましくないことを行った者はとりあえず何だっていい。ウヨクとサヨクでは当然好ましくないことの中身が違ってる。でもその違いはここでは気にしなくていい。ともかく当人が好ましくないことだと思うものがここでいう好ましくないこと。その好ましくないことを行った者が好ましくないことを行った者。その者に罰を与えるか否か?


ウヨクは何の迷いも無く罰を与えるべきと即答する。
罰の程度では色々考えもするが罰を与えるか否かで悩むことはない。ここで罰を与えるのとは違う対処を主張すると、たとえウヨク側に居てもサヨクと言われる。歴史認識や安全保障に対する考えがウヨク側と同じであってもサヨクだと非難されたりする。ウヨクが他のウヨクをウヨクと認めるかどうかは罰を与えることに同意するか否かに掛かってる。罰を与えることに同意するか否か? これがウヨクがウヨクかどうかを図る基準となってる。
罰を与えることに同意するサヨクは話のわかるサヨクと好意的に見られたりもする。


サヨク好ましくないことを行った者に対し、罰を与える以外の方法を考える。罰を与えない方向で何とか止めさせられないかと考える。


・止めるよう訴える。
・話してわかってもらう。
・その「好ましくないこと」をしなくて済むような支援をする。


このようないわゆる『平和的』な方法をまず考える。次にもう少し『平和的』でない方法として実力行使をも伴う阻止行動を取る。この阻止行動はあくまでも阻止行動であって罰ではない。「好ましくないこと」の阻止を目的とする行為。それで駄目なら、どうにも防げそうにないとなれば、どうしようもない現実と認め(諦め)、大人の対応(見て見ぬ振り)をする。
極端なサヨクとなるともう一歩進んで好ましくないことをする存在そのものを否定してなくしてしまうことを考える。こらしめて終わりとなることはなく、おしおきして様子を見るなんてこともなく、消し去ってしまうことを目指す全否定を考える。罰どころではない存在そのものの全否定。実力行使を伴うかどうかは別にしてこれ以上無いというくらいに『攻撃的』になる。


サヨクの「好ましくないこと」を行った者への対処の仕方はこのように平和的なものから攻撃的なものまで様々だが、罰を与えるという対処の仕方を選ぶことはない。サヨクは罰するということを考えない。考えないというより避けてる。罰することを避けて、罰する以外の方法を模索した結果が上記のような対処法になってるというのが正解ではないかと思う。


以前掲示板で法学部で国際法を学ぶ学生だというサヨクと言葉(専門用語等)の定義のすり合わせを試みたことがある。私が法律の素人で相手が法律用語で話す学生だったので議論をかみ合わせる為にすり合わせを行ったのだが、どうにもすり合わせが出来なかったのがこの“罰”。罰の意味を挙げてこれに該当する用語は何かと聞いたところその相手の答えは「そんな概念は国際法にはない」というものだった。あまりに信じがたい話で、今でもそんなことはないだろうと思ってはいるが、ともかく答えはそれだった。“罰”を表す言葉がないでは私の考えは語れない。やむを得ず国語辞典の意味での“罰”で私は語らせてもらうと書いて返したのだが、「言ってることがわからない」とか「理解出来ない」とか「あんたはおかしい」とか返してきてそれで終わってしまった。
いくらサヨクでも罰の意味がわからないなんてことはないと思う。でも罰という概念を否定的にみて拒絶しようとしてるのだとは思う。結果的に「罰するという概念が無い」ということにもなるのだろう。未だに信じがたいがサヨクの言動との矛盾はなく見事に合致してるのは確か。よって確信がないままに結果論として言わせてもらう。
サヨクには罰するという概念そのものが無い。」と。

※上記は極端な話だし、概念そのものがないというのも日本のサヨク限定の暴論(たぶん・・・)。あまりに極端で世界的にサヨクの特徴だとまで言う気にはなれない。国際法に罰の概念がないはずもない。実際刑罰を規定する話とかあるし。。。


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好ましくないことを行った者に対して罰を与えるか否か?
これがウヨクとサヨクを分ける基準。


ウヨクとサヨクの表面的な違いを突き詰めるとこれになる。
ウヨクとサヨクの対立もこれを巡ってのものになる。
ウヨクもサヨクも善悪の価値観は実のところほぼ同じ。
違いはそれにどう対処するか。
罰を与えるか否か? ここだけは決定的に違う。

ウヨクは罰しろと叫び、サヨクは罰を与えてはいけないと叫ぶ。
罰する為、ウヨクは激しく非難する。
罰することを避ける為、サヨクは庇う。
ウヨクは罰するべき者(ウヨクの主観)を庇うサヨクに怒り、サヨクは罰するべきでない者(サヨクの主観)に罰を与えようとするウヨクに怒る。罰を与えることを良しとするウヨクをサヨクは暴力的と罵り、暴力的と罵ることで罰することを阻止しようとするサヨク好ましくないことを行った者に味方する者と捉え、好ましくないことを行った者の一味として罵る。
結果、罰する、あるいは庇う者そっちのけでサヨクとウヨクが対立する。
これがサヨクとウヨクの対立の実態。


ウヨクは無闇やたらに暴力的なわけではなく、好ましくないことを行った者を罰したいだけ。サヨクは中国人とか韓国人だとか朝鮮人だとかいうわけではなく、その工作員でもなく、日本が嫌いな売国奴というわけでもなく、罰を与えることを良しとしないだけ。私にはそう見える。



罰することの是非を巡って争ってるのがサヨクとウヨク。
勝敗は罰することの是非を世間に認めさせるか、政治に反映させられるかで決まる。
私は罰は絶対になくてはならないものだと思ってる。
罰をサヨクに否定されてしまわないよう罰の必要性を訴えたい。

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