「強制」は受け止め方次第

村野瀬玲奈の秘書課広報室
「国旗国歌の強制」とは、「精神内面への強姦」ではないでしょうか? (1)
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-714.html

今回のエントリーはこれに触発されてのものです。

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人は“良いと思ってる事”を他の人に強制することは是とする。
その“良いと思ってる事”を他の人に強制することを悪いことだとは考えない。なんたって良い事なのだから。
さてその“良いと思ってる事”を強制される他の人はそれをどう思うか?


それを同じく“良いと思ってる事”だと思う場合、思ってる場合。
この場合はたとえ強制であってもそれを強制だとは感じない。
“良いと思ってる事”だと思ってるのだから強制されるまでもなく自らやってたりもする。
すでにやってるのだからやらせたい側もわざわざ強制しない。
よってそこには強制もないし強制に伴う反発もない。
やってなくとも“良いと思ってる事”だと思えば「そうしよう」と思う。
良い事を言ってくれたと感謝はしても反発はしないし強制とも感じない。
だからその強制を強制だと思わない。強制という意識は全然無い。


そして良い事だと思ってるから自身でも人に勧める。「そうした方がいい」と。
また、強制してるつもり全然なく「そうしろ」とだって言う。



その“良いと思ってる事”を良いことだと思ってない場合。
この場合は強制だと感じる。反発もする。
良い事どころか悪い事だと思ってる場合はその反発はより強くなる。
なんたって悪い事をやれと言われてるのと同じ事だから。
悪い事などやりたくない。
悪い事というのはそれをやると自分が損したり苦しくなったりすると思ってる事。
あるいは自分の喜びや楽しみを失ってしまうような事。
そんな事をやれと言われて素直に頷けるわけもない。
やりたくない。にも関わらずやれと言われると強制だと感じる。
損は嫌、苦しいのも嫌、喜びや楽しみを失うのも嫌。だから反発も激しくなる。
この場合は強制と強く感じることになる。
そしてこの場合、強制でなく「そうした方がいい」であっても
激しい反発から強制だと感じる。



まずこの“良いと思ってる事”自身で良いと思ってる事を当てはめて読んでみて欲しい。前半部分に同意出来るはず。
次にこの“良いと思ってる事”自身では悪いと思ってる事を当てはめて読んでみて欲しい。後半部分に納得出来るはず。


そしてこの“良いと思ってる事”国旗掲揚を入れて読むと、村野瀬玲奈さんの疑問は氷解すると思う。国旗掲揚・国家斉唱を良いことだと思ってるウヨクはそれを良い事だと思ってるから人にも勧める。やれともいう。そこに強制という意識は全然ない。




再度“良いと思ってる事”に自分で良いと思ってる事を当て嵌めて後半部分を読んでみて欲しい。それが自身と反対の考えを持つ人が感じてること。サヨクの主張にウヨクは後半のように感じており、ウヨクの主張にサヨクは後半のように感じてる。それぞれ自身が良いと思うことを他の人に勧めたがってる。そうして欲しいと願ってるしそれをさせたいと思ってる。良いと思ってるから相手が嫌がっててもやらせたいと思ってる。誰もが本音では強制したいと思ってる。強制出来る立場に立てば強制だってする。サヨクもウヨクもそれ以外の人も。
それを強制とみるかどうかはそれぞれの受け止め方による。良い事だと思えば強制とは思わないし悪い事だと思えば強制だと思う。受け止め方次第。
受け止め方次第なのだから強制かどうかを問題にしても話は進まない。問題にすべきはその“良いと思ってる事”の『事』の是非。それが良いことなら強制してでもやらせていい。でも良くないことなら強制はとんでもない。強制の是非はその強制で何をさせようとしてるかによる。



ネットウヨクの私からみればサヨクの強制しようとする姿勢は相当に強い。説明と納得のプロセスなんて全然ないように思える。当のサヨクは説明してるつもりだろうとは思うけど、納得させようとする努力は感じない。この納得させようとする努力は当然ながら納得してない者に対して行うもの。サヨクならばウヨクに対してこの努力は行われなければならない。
この辺りサヨクの皆さん手抜きすぎじゃない? 話してもわからないと思ってるのはわかるけど、それにしても手を抜きすぎ。わかってくれないとなるとすぐに対話を打ち切ってしまう。そして対話を拒否する。ネットウヨクにもそういうのいるからサヨクばかりを責められないけど。
私はサヨクにもっと異なる意見の者と話しましょうよと言いたい。私は自分とは異なるサヨクの側にいる人とすごく話がしたい。そして何故そのように考えるかの理由が知りたい。