異端が常識となる流れ

何時の時代にもその時点での常識とされる考え(認識)がある。
常識となってるわけだから大多数がその考えを受け入れている。
その時点での社会はこの常識を元に作られてもいる。
この常識に従ってる限り問題は起こらない。社会の変化も起こらない。



大多数はその常識で生きているのだが、中には異端の考えを持つ者も出てくる。その時点の常識を受け入れてる大多数はこれを寄って集って潰そうとする。大多数にとって自分の認識と違うその異端の考えは間違ったものと思えるもの、悪い考えだと思えるもの。だから潰そうとする。
また、異端の考えはその時点の社会を変えてしまうものであり、その時点の社会に適応して生きている者にとって社会の変化は好ましくないものであり、その意味でも潰しに掛かる。異端の考えが理解出来るものだとしても、今の社会を維持する為に潰しに掛かる。


圧倒的な多数が極少数の異端を潰しに掛かるのだから、多くの場合異端はその圧力に潰される。しかし、異端がその潰そうとする圧力に耐えて訴え続ければ、人々がその異端を理解し、支持するようになったりもする。圧倒的多数vs極少数が大多数vs少数に、更には多数vs少数に、そしてほぼ同数が拮抗するようになり、ついには逆転し、少数vs多数、極少数の生き残りvs大多数となり、元々極少数の異端でしかなかったものが大多数となって、元々は大多数であった少数が、元々極少数の異端でしかなかったものに駆逐されることになったりもする。大多数から虐げられてきた最初の異端者は、先駆者として大多数から称えられる存在となったりもする。こうなった時の常識はかつての異端。異端はこの流れで新たな常識となる。


今現在常識となってるものはほとんど全てこの過程を経て常識となったもの。最初はどれも異端。大勢から寄って集っての激しい攻撃を受ける。しかしそれを乗り越え、受け入れられさえすれば、異端は新たな常識となる。




もちろん異端が耐えて訴え続けたからといって必ずこうなるわけではない。その異端の考えが他の誰にも受け入れられないものであれば、圧力に耐えて訴え続けたとしても、大多数から拒絶され、はみ出し者として寂しく朽ち果てることになる。多くの異端は受け入れられることなく朽ち果てる。一時的に受け入れられたとしても、やはり良くないとなれば、捨て去られ、朽ち果てる。しかし大勢から受け入れられるものであれば、それまでの常識を駆逐して、異端が新たな常識となる。



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異端だろうとなんだろうと、自身が正しいと思うところを主張すればいい。最初は非難轟々だろうが気にすることいはない。それが他の大勢にとって受け入れられるものならいずれ常識になる。受け入れられないものなら寄って集って潰してくれる。結果は周りの人達が出す。当人は思うところをやればいい。
私は田母神俊雄氏と中山成彬氏が先駆者となるよう二人を支持する。



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