歴史論争が終わり、動き出す

あからさまな言論弾圧思想統制が田母神氏の主張を封じ込める為に行われようとしてる。これで歴史を巡る“論争”は終わるかもしれない。もうどちらが真実なのかを巡る資料を持ち出しての論争は終わって、それぞれがどの歴史観を受け入れるかだけが意味を持つようになるかもしれない。



元々ほとんどの人の歴史認識は人から聞いた話だけで構成されてる。一次資料を精査して自身の歴史認識を作り上げた人なんてほとんどいない。ほとんどの人がそんなことをしていないが、それでも歴史認識は持ってる。本当かどうかわからないままに、歴史を知ってると自称してる人の話を聞いて自身の歴史認識を作り上げてる。つまり、実のところ歴史の事実が何なのかは人々の歴史認識にはあまり関係ないのだということ。


 歴史認識は実のところ、事実がどうであろうと関係ない。
 もっともらしく、納得出来る話だけを人々は受け入れる。
 歴史認識を決めるのは歴史的事実でも資料でもない。
 主張してる者の信用度が人々の歴史認識を決定する。


田母神氏を抑え込もうとし、言論弾圧思想統制を行おうとしてる者達の姿勢は、人々がどの歴史認識が正しいかを決める尺度になる。あからさまな言論弾圧思想統制。これは決定的に信用を落とす。このような行為に出る者達がどんな資料を持ち出そうと説得力は皆無。人々の歴史認識は歴史論争ではないところで決まるようになる。もう歴史論争で歴史認識は決まらない。歴史論争は効力を失う。


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歴史論争はかく乱の意味を持ってた。サヨクの語る歴史がおかしいことは少し考えればすぐわかる。すぐわかるが、それを証明することは非常に難しい。何より手間。際限なく出てくる沢山の資料を一々検証し論争するということを複数同時進行で何度も何度も繰り返すことが必要になる。おかしいとはわかっていながら何時までも結論が出ず、結論が出ないからどれもが曖昧で、思い切った行動に出られない。絶対の自信を持って主張出来ない。歴史論争をやってる間は他のことは出来ない。動けない。


しかし、どんな形であれ歴史論争が終われば、動き出せるようになる。歴史論争に割かれてた労力が行動に向けられるようになる。資料がこうだとか、こんな発言が残ってるとか、そんなのはもうどうでもいい。検証などしなくとも言論弾圧思想統制で論争に耐えられないおかしな主張を押し付けようとしてるのは明らか。言論弾圧思想統制を行おうとしてるのがその何よりの証拠。それさえハッキリすればいい。もう思い切って主張出来る。絶対的な自信を持って強く主張出来る。おかしいのは奴らだと。



歴史の問題と違い、言論弾圧思想統制が正に言論弾圧思想統制なんだと証明するのは簡単。証明するまでもない。こんなのは直感的にわかる。それ故に言論弾圧思想統制をしてるという非難は強い効力を持つ。人々を躊躇わせることなく突き動かす。






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