サヨクは自論を理解していない

サヨクは理論を一つのパッケージとして記憶しており、
何故そうなるのかという理屈の部分は理解してない。
理解せず、理屈もパッケージの内に含まれるものとして記憶で処理してる。


だから、何故そうなのかと問えば、記憶してる理屈を開陳し並べ立て、これこれだからこうなんだと意見を述べる。記憶してる理屈であるから、この理屈は受け売りとなる。受け売り故に、これが正しいかどうかは誰の受け売りかどうかが重要になる。誰のかが。なので、サヨクは誰某がそう言ってると言って正しさの根拠にしようとする。専門家が言ってる、著名な学者が言ってる、教科書に書いてある等々。


この誰某が言ってるというのは、理屈の正しさの根拠になるものではない。誰某が言ってるというのは、理屈の正しさの根拠ではなく、信憑性の根拠となるもの。
「専門家の誰某が言ってるなら信用出来るだろう。」
「著名な学者の誰某が言ってるなら信用出来るだろう。」
「教科書に書いてあるのだから信用出来るだろう。」
このように信憑性が高いことを示す根拠となるもの。これを理屈の正しさの根拠として持ち出すサヨクは、理屈の正しさを信憑性で判断してるということ。
ちなみにこちらが、こうこうだからこうだと理論的な説明を試みても、誰がそんなことを言ってるのかと聞いてくる。どこの専門家がそんなことを言ってるのかと聞いてくる。つまり、信憑性を聞いてくる。


さて、ここで少し頭を切り替えて、信憑性が問われるものとは何かを考えてみて欲しい。信憑性が問われるのは何か?
答えは、「嘘か真かわからない情報」
嘘の可能性もあり、真の可能性もあり、いくら考えてもわからない情報。これはもう信憑性だけが頼り。誰が言ったか、どこから伝わってきた情報かで真偽を判断することになる。いくら考えてもわからないから、そうするしかない。信憑性を頼りに判断することになる。信憑性とはこういう時にものをいうもの。それをサヨクは理屈の正しさの根拠に使ってる。


サヨクは理屈の正否を、理屈そのもので判断することが出来ていない。
理論的に考えての正否の判断でなく、信憑性を頼りに正しいと判断してる。
理論的に考えての正否がわからないまま、信憑性を頼りに正しいと判断し、
理論を丸ごと記憶し、それを自論とし、わかったつもりになってる。
実際には何もわかってない。自論すら理解してない。それがサヨク
信憑性を理屈の根拠に持ち出すサヨク


そんなサヨクは、受け売りの理論との照らし合わせで物事の是非を判断する。合致してるなら「正しい」。合致していないなら「間違い」。サヨクはそんな判断しかしていない。理論的に考えての判断はしていない。


◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


受け売りで自論を構築してるサヨクは記憶力には長けてる。記憶力中心の詰め込み教育の申し子。しかし、理論的に考えるべきところまで記憶との照らし合わせで処理してきた為に、理論的な思考能力がまったく身についてない。記憶を頼りに子難しい理屈を並べ立てながらも、簡単な理屈を理解することが出来ない驚く程の馬鹿がサヨク



サヨクは本当に馬鹿。驚く程に馬鹿。しかし記憶力には長けて、知識はある。だから一見頭が良さそうに見える。実際子難しい話をさせるとその知識量で他を圧倒してしまいもする。その知識が正しいか正しくないかは関係なく、量で圧倒してしまう。でも本当は凄く馬鹿。呆れ返る程に馬鹿。なので、サヨを相手にする時は、馬鹿馬鹿しい程に単純で簡単な話に持っていくのがよい。呆れ返る程に馬鹿なサヨはその簡単で単純な話をこなせない。相手の言ってることを理解し、相応しい返答を返すという極めて簡単なことが出来ない。理解力の無さ故に、悪意なく、自覚なく、間違って捉えての曲解と論点が把握出来ない故の論点ずらしをやってしまう。根詰めて読み込むまでもない簡単な話で、呆れ返る程の馬鹿を晒す。サヨを相手にする時はそういった簡単で単純な話に持ち込み、馬鹿を晒すのを待てばいい。サヨは必ず馬鹿を晒す。あとはその馬鹿を同じネタで突き続けてりゃいい。そこまで追い込めば相手するのに大して手間も掛からなくなる。



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