個の発展vs全体の発展

市場に任せての競争はつぶし合い。
手加減なしの全力での戦いをするから、敗者は行き着く処である潰れるところまで行ってしまう。敗者は潰れてしまう。戦いは延々繰り返される。次々潰されていく。生き残る勝者は極わずか。豊かになれるのは極少数の勝者だけ。ここは飛び抜けて豊かになる。でも大半は敗者になる。大半の者が、現状維持がやっとの生活を強いられることになる。
そうなった社会は、トータルで考えた場合弱い。戦力となるのは飛び抜けて豊かな勝者のみ。後は保護が必要なお荷物ばかり。新自由主義が作り出すのはそんな社会。勝者は突出して繁栄するが、全体としての総合力は落ちていく。


日本がやってきたのは、潰し合いではない競争。
競い合いはするが、相手を潰すことまではしない加減された競争。同業者仲間として、競いつつも時には協力もし、全体としての向上を目指し、全体の向上に伴っての自社の発展を目指す。また、従業員は、自社の発展に伴っての自身の発展を目指す。加減された競争の為、突出して自分のところだけが豊かになることは難しい。勝者となってもそこそこでしかない。敗者にしてもそこそこ。落ち込む程度で、潰れはしない。こちらの社会では誰もが戦力になれる。貢献度に差はあるにしても、お荷物にまではならない。そして皆が全体の繁栄を考えて動く。全体としての総合力は上がっていく。




新自由主義の者が考えるのは自分の利益。全体としてのバランスは自然と取れていくという考え。だから、全体のことは考えない。自分の利益を考えると「飛び抜けて豊かになる」と「勝者となってもそこそこ」での比較になり、豊かになれる新自由主義を選択する。対して、民族派が考えるのは民族全体の利益。全体としての総合力で考え、新自由主義を否定する。


新自由主義の者が考えるのは自分の利益。だから、敗者のことは考えない。再就職しろとかセーフティーネットに救ってもらえとか。敗者に関しては自分の知ったことじゃないという態度。だから敗者が潰れることを気にせず新自由主義を選ぶ。対して、民族派にとって敗者は同胞であり捨てては置けない。敗者を潰してしまう新自由主義は選べない。



新自由主義を選ぶか選ばないかの違いは、自己を重視するか全体を重視するかの違い。全体を重視し、自己を重視するものを嫌う私は、新自由主義を嫌う。


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