解くカギは失敗を許す事

日本警察の浄化をめざして」仙波敏郎氏講演(下)
「裏金を失くすことが検挙率アップや冤罪をなくすことにつながる」
三上英次2009/08/17]

http://www.news.janjan.jp/living/0908/0908138680/1.php

全てを解くカギは、失敗(過ち含め)を許す事だと私は考えます。仙波敏郎氏のような責め立て方をしていては、裏金を無くすことも冤罪を無くすことも出来ないのではと思います。



神ならぬ人間だから、失敗は絶対にある。


絶対にある失敗を無いことにしようと思えば、隠す以外にない。失敗が自身の破滅に繋がるとなれば、これはもう隠す以外選択の余地がない。しらを切り、誤魔化し、事実を捻じ曲げてでも無いということにしないわけにいかない。これはこれで大変だったり苦しかったりするのだけど、それでも身の破滅よりマシ。最悪誤魔化せなくなって隠せなくなっても、身の破滅以上に悪くなることもない。これはもうどう考えても隠した方が得。だから隠す。


これは「絶対にある失敗を無いことにしようと思えば」の話で、
「失敗が自身の破滅に繋がるとなれば」の話。
この状況では隠すのが当人にとって最善。人はその最善を選ぶ。
傍が「失敗を認めろ」と言っても聞くわけがない。
それって、自ら破滅を選べと言ってるのと同じ。無茶言うなってなもん。
やはり人は自身にとっての最善を選ぶ。最善である「隠す」を選ぶ。


だから、隠さず失敗を認められるようにするには、
「絶対にある失敗を無いことにしようと思えば」を変えなければいけない。
「失敗が自身の破滅に繋がるとなれば」を変えなければいけない。
要するに、
失敗が起こり得るものだということを認め、
失敗が自身の破滅に繋がらないようにしろということ。
より具体的に書くと、


数パーセントの失敗を見込み、
失敗をしてもその頻度が数パーセントであれば許す。
度々失敗を繰り返すようなら、失敗する可能性を無くす為にその仕事から外す。
失敗を認めない場合も、失敗を失敗と認識する能力が無く、改善は望めないということで外す。


これで、絶対にある失敗を無いことにしなくて良くなる。失敗をしてもそれが直に自身の破滅に繋がらない。こうすれば失敗を認められるようになる。逆に認めないでいると、改善の見込み無しということで外される。この状況での最善は、失敗を認めることになる。それも出来るだけ早く、他者に指摘されるより早く認めることが最善の選択となる。遅らせると失敗の頻度が上がってしまうので。失敗を失敗と認識する能力のないダメ人間と評価されてしまうので。認めれば許されるのに、誤魔化そうとして余計に評価落とす馬鹿な奴ということになるので。早々に失敗を認めるのがこの状況での最善。人は自身にとっての最善を選ぶ。最善である「失敗を認める」を選ぶ。失敗を認めて謝るを選ぶ。


人は自身にとっての最善を選ぶ。
最善が「隠す」であれば、「隠す」を選ぶ。
最善が「失敗を認める」であれば、「失敗を認める」を選ぶ。



失敗を認めさせたいなら、許すこと。大事なのはこれです。これがカギです。
(ただし許すのは失敗を認めた後です。失敗を認めないままの奴を許してたら、認めない方が得になって、「隠す」が最善になりますので)



ちなみに、警官の誤認逮捕や裁判官の誤審が、人の人生を大きく狂わせてしまうものだということを承知で言ってます。私が言ってるのは、そういう失敗をも許せということです。
神ならぬ人間だから失敗は絶対にあるのです。許すしかないではないですか。
私はそう考えます。




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◆おまけ◆
中国・朝鮮の文化は失敗が即致命傷になる文化です。
だから、何が何でも失敗を認めません。それがかの地での最善の選択です。だからかの地の人々はこの選択をします。かの地での最善の選択をします。


一方日本の文化(旧来の)は失敗を許す文化です。
だから、即座に失敗を認め謝ります。それが日本(旧来の)での最善の選択だからです。だから日本人はこの選択をします。日本での最善の選択である「すみません」を即座に口にします。もっとも最近は謝っても許されなくなったので、「隠す」が最善となりつつあります。迂闊に失敗を認められなくなりつつあります。下手に謝ることが出来なくなりつつあります。


これは理屈だけの話ではなく、現実に実例のある話です。少し連想を働かせれば体感的に実感出来る話のはずです。それで理解が出来るはずです。身近な例に当て嵌めて考えてみてください。