内心への干渉をためらうな

内心の自由云々は、内心(の内容)を理由に罰しないということであって、何を考えてても良いというものではありません。「気に入らない奴は殴っても良いんだ!」なんて考えてる人には、「そんな考えをしててはいけません」と言ってあげた方がいいのです。干渉した方が良いのです。内心の自由だから何考えてても良いんだというのは違います。
干渉した方が良いとはいえ、「殴る程度では生ぬるい、殺しちまえ」なんて干渉はいけません。念の為に書いておきます。


ちなみに、人の内なる心である内心は、他人には決定も制限も出来ません。押し付けることだって出来ません。出来るのは干渉のみです。強い干渉は押し付けと感じられるでしょうが、人は押し付けられたからといって受け入れたりはしません。上辺だけならともかく内心までへの受け入れは常に自分の意思です。だから押し付けられることはありません。故に、押し付けることだって出来ません。出来るのは干渉だけです。


『内心』に関するもので民主主義の根幹であるのは、内心への干渉です。自由ではなく、尊重でもなく、干渉です。
為政者の内心に対する市民による干渉を、為政者が市民を処罰することで封じてしまうことがないように、『内心の自由』を守るべきものとして掲げてるのです。
本当に大事なのは、内心への干渉であり、内心への干渉を行う自由です。



内心への干渉がなされるということは非常に大事です。
これがされなくなると人は独善に陥ります。
自分はこれで良いんだと思うようになります。
自身の過ちに気付けなくなり、正せなくなります。
成長も進歩も出来なくなります。
そして、理由がわからないまま延々嫌われ続けることになります。
これは不幸なことです。


そういった不幸に人を陥らせない為に、内心への干渉は積極的に行わねばなりません。ハッキリいって内心への干渉は面倒です。嫌なことも言わなければなりませんから嫌われもします。それでもやろうという気になるには強い確信が必要です。内心への干渉は必要なのだという確信が。内心への干渉は相手の為になるのだという確信が。


内心への干渉は必要なものです。
干渉される側にとって必要なものです。


皆がこれを理解し確信し、他の人の幸せの為に、
積極的に干渉を行うようになって欲しい。
そう私は願っています。



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2009/11/14 No.325
内心の自由」は不可侵を意味しない
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