元来日本社会は窮屈、でも窮屈ゆえに安心。

「空気読めよ」って子供たちまでが平気で言う時代。いつから日本はそんな窮屈な国になっちゃったんだろう? 好奇心のカタマリで、面白い人に会うのが大好き、そしてちょっぴりアマノジャクなカマタ先生。元気のない今の日本は「空気に負けている」とおっしゃる。足りないのは「政治家が語る明確な国家ビジョン」だって。ウン、ウンその通り!



産経新聞(平成22年3月30日)
【朝刊 オピニオン】
【話の肖像画】KYバンザイ!(上)医師・鎌田實

から一部抜粋


この『「空気読めよ」って子供たちまでが平気で言う時代。いつから日本はそんな窮屈な国になっちゃったんだろう?』に対しての私の意見。



 元来日本の文化とは窮屈なものです。常に人目を気にして、人目が無くとも『お天道様』を気にして、草葉の陰で見守ってくれてるご先祖様を気にして自分で自身を律することを求められるのが日本の文化です。また、単に自身の基準で自身を律するだけでなく、周りの人への配慮という形で、周りの人の基準でも自身を律することが求められるのが日本の文化です。更には場に拠っての基準というものもあります。それにも合わせねばなりません。自分の思うように自由気ままに振舞うことは許されません。かなり窮屈です。日本の文化とはそういう窮屈なものです。

 ですが、そうして個々が自身を律するようにすると、その社会の中の個々人には平穏がもたらされます。傍若無人に振舞う者に煩わされずに済みます。迷惑をこうむることもないし、揉めてしまうリスクを犯して注意したりもせずに済みます。それぞれが自分で自身を律してるのですからその人達が悪いことをする心配は少なく、つまりは信用出来ます。結果、余計な事に煩わされず、自分の仕事に専念出来ます。気を抜いて遊んだり休めたりします。安心して日々を過すことが出来ます。そういう社会になります。窮屈な日本の文化で作られた日本の社会は、安心して暮らせる相互信頼社会となるのです。


窮屈だけど安心。それが本来の日本の社会です。



 この“窮屈”ですが、ここで求められてるのは基本的には「悪いことをしない」です。盗まない・騙さない・暴力振るわない等々。これは誰もがやってはいけないことと理解してるので窮屈とは言わないでしょう。問題は次です。日本文化の場合、これにプラスして「身勝手な振舞いをしない」が入ります。「自分勝手なことをしない」です。「周りのことを考えろ」です。これをどう捉えるかで感じる窮屈さが変わってきます。


「身勝手な振舞いをしない」
「自分勝手なことをしない」
「周りのことを考えろ」


これを当然と感じる人は日本文化を窮屈と感じない人です。この人にとって窮屈だけど安心な日本の社会は、単なる安心な社会です。


人に合わせるのは嫌だと言ってこれを鬱陶しく感じる人は日本文化を窮屈と感じる人です。この人にとって窮屈だけど安心な日本の社会は、窮屈で面白くない社会です。


合わせ方がわからないという人も日本文化を窮屈と感じる人です。どうしていいかわからず、何やっても怒られるような気がして、何も出来なくて、窮屈だと感じます。この人にとっても日本の社会は、窮屈で面白くない社会です。



「窮屈だけど安心」の“窮屈”とはこういうものです。私はこの程度の窮屈さは当然と考えます。そして、窮屈だけど安心な社会をもたらす日本文化を復権させたいと考えています。 求められてる自制は「悪いことをしない」と「自分勝手なことをしない」です。それ以外の事柄まで抑え込むことを求めてるわけではありません。一風変わった趣味を持ってるとか風変わりなことに熱中してるとかなんてのは全然構いません。誰もそんなもんの自制求めません。親が勉強しろと言ったり、家族が父ちゃん仕事してとか言うのは別ですが。


さて再度これ。


「空気読めよ」って子供たちまでが平気で言う時代。いつから日本はそんな窮屈な国になっちゃったんだろう?


そんなに窮屈ですか? 「空気読めよ」って言われないようになれよって私は思います。





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