検察だって間違いを犯す

小沢一郎が不起訴になって、検察審査会の起訴議決で起訴になってなんてことやってますが、こんなもん検察がとっとと起訴してしまえば良かったんです。そして裁判やって、判決出して、有罪かどうか決着すればいいんです。もしそれで無罪ということになれば、無罪とすればいいだけです。なぜこれが出来ないかといえば、失敗が許されないから。無罪の者を起訴するなんて間違いが許されないから。



【小沢氏「強制起訴」】国民・亀井代表、「冤罪なら大変な人権問題」
 国民新党亀井静香代表は6日の党幹部会で、民主党小沢一郎元幹事長に対する検察審査会の起訴議決について、「検察審査会が起訴相当とした事件で無罪判決が出ている現実がある。冤(えん)罪(ざい)の場合、大変な人権問題だ」と指摘した。(後略)

http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/101006/stt1010061745008-n1.htm

記事にあるように、起訴して無罪判決が出たら大変な人権問題だなんて言われてしまう。無罪の者を起訴したといって検察が叩かれる。だから、検察は間違いなく絶対に有罪に出来るというところまで行かないと動けない。限りなく黒に近いグレーでも、起訴出来ない。
だいたい検察が起訴を検討するのは、検察自身は黒だと確信してる時。検討するのは、公判を維持し、裁判官に有罪だと判断してもらえるところまで行けるかどうか。被告が有罪かどうかを検討してるわけではない。そういった検討をして、間違いなく有罪に出来るというものしか起訴しない。つまり、有罪だと確信してるのに起訴しないケースが多々あるということ。これってどうよ?

また、無罪判決が出たら大変な人権問題となるとなると、一旦起訴したら、何が何でも有罪にしなければならない。自白を強要したり、証拠をでっち上げたりもしないわけにいかなくなる。そういった事がばれそうになったら嘘も言わなければならなくなるし、その嘘を言い張らねばならなくもなる。


誰かがそういうことをした時、それに気付いた時、その者に近しい者は、その者が破滅しないよう丸ごと見逃すなんてことも起こる。ついつい隠蔽に加担してしまったりなんてことにもなる。特別近しいわけでもないものは、面倒を避けようと、目を背けて知らん顔をする。


無罪の者を起訴するという間違いが一切許されないとなると、このようなことになる。検察だって人間。間違えもする。有罪だと思って起訴したけど、無罪判決が出て無罪になるなんてことも起こる。この時に上記のような問題を起こさない為には、こういった検察の間違いは許容しなければならない。


確かに検察の間違いは容疑者となってる者に多大な損害をもたらす。でも、無理やり有罪にされることに比べれば遥かにマシ。そう考えて、検察の間違いを許容してもらいたい。


この容疑者の『多大な損害』も、起訴がイコール有罪となってるから起こること。起訴された段階ではまだ有罪か無罪かわからないとなれば、被る損害も少なくなる。絶対有罪にしなければならないという重荷が無くなれば、拘留期間だって短く出来る。控訴を繰り返して、公判が長期に渡るなんてことも減る。無理やり有罪にされる冤罪事件も減る。



これらはどれも検察は絶対に間違えてはならないという非現実的な建前が引き起こしてる。
もっと検察の間違いに寛容にならねばならない。
人間は間違えるものだという現実を踏まえて物事を考えねばならない。
検察だって間違えるんだという現実を認めさえすれば、多くの問題がスッキリする。




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間違いが許されないという風潮の原因は、人権思想です。人権侵害が絶対的に許されないなんて考えが、人権に大きく関わる安全保障や検察等々における間違いを一切許さないという考え方になってます。どんなに頑張ろうと人間は間違えたり失敗したりするのです。これはもうどうしようもないことなんです。それが原因で被害や損害が出たりもするでしょうけど、それは仕方のないことなんです。諦めて下さい。そして、間違いを一切許さないなんて考えはとっとと捨てて下さい。その考え自体が多くの間違いの元になってるのですよ。


このエントリー、ムチャクチャ受けが悪いだろうな〜〜って思う、、、