判断を下した者が責任者。

■責任を負うのは、判断を下した者。
ある判断に基くある行為を行なうと、その行為が原因となって引き起こされた結果というものが出てくる。その結果について責任を負うのは、その結果となる原因となった行為を行うという判断を下した者。


※ 判断をしないというのも「判断をしない」という判断を下したということ。ただし、判断は可能な範囲に限られる。そもそも判断することが不可能な場合は、「判断をしない」には該当せず、判断をしないという判断を下したということにはならない。幼児や知的障害等思考能力の不足(いわゆる責任能力無し)、未知な要素という判断材料の不足(いわゆる不可抗力)、保持する権限で制限される判断の制限等により判断を下すことが許されておらず、判断をすることが不可能な場合がこれ。判断を下してないので責任も負わない。


だから、ある事柄に関して誰に責任があるかを明らかにするには、
誰の行為がその事柄の原因になったのかを探ればいい。
結果から、逆に辿って原因となった行為を探っていけばいい。


そして、辿り着いた責任を負う者が、間違いなく責任を負う者なのかどうかの確認作業として、その者がその行為を行わなければ違う結果となったかどうかを考えてみるといい。
結果が変わらなければ、その者は責任を負う者ではない。
違う結果となっていれば、その者が責任を負う者で間違いない。



■責任を負う者は、結果に応じての報いを受ける。
その結果が良ければ、それは責任者の功績となる。
この場合、責任者には何らかの報酬(当人の喜びとなるもの)が与えられるべき。そうしないと、良い結果を出そうとする動機が失われ、良い結果を出さなくなるから。


その結果が悪ければ、それは責任者の罪となる。
この場合、責任者には何らかの罰(当人に苦痛となるもの)が与えられるべき。そうしないと、結果が悪くとも気にしなくなり、悪い結果を出すようになるから。


また、報いは相応のものでなければならない。
過度な報酬も過度な罰も良い結果をもたらさない。


※何が良くて、何が悪いかはまた別の問題。
 望む結果が「良い結果」で、望まない結果が「悪い結果」。
 望みが変われば、良し悪しも変わる。良し悪しは何を望むか次第



■信賞必罰
誰が責任を負う者かを割り出し、その者に相応の報いを与えねばならない。
責任を負う者に相応の報いを与える為に、誰が責任を負う者かを割り出さねばならない。
責任を負う者を割り出し、その者に適した相応の報いを算定し、責任を負う者に与えなければならない。その後の良い結果を得る為に。
また、それが出来ないと、人々に不満を抱かせる。不満の発生を抑える為にも、責任を負う者に相応の報いを与えねばならない。



これが、誰が責任ある者で、どこまでの責任を負う者で、その者にどのような報いを与えるかを考える際の基本的な考え方。と、私が考えてるもの。理論から導き出したものではなく、人々の言動の観察から導き出したもの。人々が、誰に責任を問い誰には問わないかを見て、また、どんな責任を問い、どんな責任は問わないかを見て、導き出したもの。


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