目安としての目標と真の目的

■目安としての目標 富の増加

■目的は選択肢の幅を広げること
  資金・労力・知識をより潤沢に用意すればするほど選択肢の幅は広がる。

■目指すのは、人々の良い暮らし
  何をもって良い暮らしとするかは個々人で違うので、目指すのは個々人個々。
  なので、全体としてこれを目指すことはしない。これを全体の目的とはしない。

  実のところ、個々人の目指す個々にとっての良い暮らしは比較的簡単に達成可能。
  これを最終目的とすると、早々に目的達成となり、

  やることがなくなるという状況に陥る。
  退屈したり飽きたりして壊したくなる。これはこれで不幸。

  だからこの目標は建前。
  もちろん個々人が満足してるならそれはそれで構わないのだけど、
  掲げる目標としては物足りない。し、面白くないと、

  私個人として感じるの   で、、、

■真の目的は、人々がより良い暮らしを目指し続けることが出来ること。
  達成を目的とせず(個々人はこれを目的とするが、政府としては)
  目指し続けて行動し続けることが可能な状況を作ることを目的とする。

真の目的を可能にする原資が富であり、多ければ多いほど良く、だから富の増加を目標とする。ただし、真の目的に使う分を浪費と考えて抑え込もうとしたら本末転倒なので、富の増加の上に真の目的があることを忘れないことが大事。真の目的の為なら富はしっかりと使わねばならない。富を減らすことを容認出来るようにしておかないといけない。多分、労力アップか生産性アップという結果が出て、一時的な富の減少の後の富の増加ということで齟齬なく出来る気がするけど、今のところ勘。もしそうなら、真の目的は忘れてもいいのだけど。

適切は常に中途半端

適切な表現及び思考は、言い切る形にならないのでとても難しい。

言い切ると極々わずかな場合を除いて間違いを含んでしまう。

言い切らないことが大事。

 

だけど、言い切らない表現を捉えることは簡単ではなく、

捉えられないものを理解することはより困難。

 

困難ではないが、出来なくはない。というか、大体皆これ。

「何となくわかる」「こんなかんじかな」という理解の仕方がこれ。

中途半端でもやもやするだろうけど、これで良し。

この程度に伝われば適切な表現。この辺でまとめとくのが適切な思考。

 

 

民主主義における高齢者VS若年者の議論について

 

高齢者は生まれてからの時間が長い分、若者より遥かに多様で、
多様故に、その意見は多数派にはなれない。
高齢者の意見の方が若者の意見より通りやすいなんてことにはならない。
今若者より高齢者の意見が通っているように見えるのは、

力を持ってる少数の高齢者の意見が通るから。
別に高齢者が多くて多数意見になるからではない。

 

単純に数の勝負にすれば、意見がまとまりやすい若者の方が勝つ。

 

 

優生思想について

ある記事から。

「人間は生まれながらに優劣があり、劣悪な遺伝的素質は排除されるべき」
という“優生思想”を・・・

 


まず前半。
人間は生まれながらの優劣がある。その通り。
これは現実であり、現実である以上認めねばならない。

優秀な者は、優秀であるのだから、これを活かせるよう鍛え育てるべき。
でないと、もったいない。

 

後半。
劣悪な遺伝的素質は排除すべきか。

その前に、何故ここで“素質”となってるか疑問。

劣悪な遺伝子を持った人間ではなく、劣悪な遺伝的素質。何故?

とりあえず、遺伝的素質と書いてるので素質で考えるなら、
出来るのであれば排除した方がいいのは間違いない。
劣悪な要素排除して、劣悪な要素を持たない人間に出来るなら、
そうした方がいいのは間違いない。
遺伝子一切いじるな、遺伝子治療すら許さないという人なら別の意見だろうけど、
そうでない多くの人はこれに異議はないはず。


字面通りに捉えればこう。
だけど、“優生思想”を絡めての話だから趣旨は、
「劣悪な遺伝子を持つ者は排除されるべき」なのでしょう。
これであればどうか。

脊髄反射的に答えれば、ダメ!で、決して許されないとなるのでしょうか。
個々人が内心どう考えているかはわからないけど、
排除はいけないというのが一般的で支配的な考えとなってる。
そっちが正義となっている。たぶん。


で、私はどう思うか。

適材適所で相応に扱えばいいのではと思う。
優秀なら優秀なように、その能力を最大限に発揮出来るように扱う。
劣るなら劣るで、劣るなりに出来ることを最大限出来るように扱う。
能力が違うので同等には扱わないが、劣るからって排除することもない。

 

優生思想云々に関してはこんな感じ。
こんなもんでいいのではないでしょうか。

 

 

 

 

 


-------------------

以下余談

 

野田洋次郎の “遺伝子”ツイートに批判殺到「優生思想?」

今回のエントリ、この記事を見て書いたのだけど、この記事無茶苦茶ですね、色々。
文章、元の発言の捉え方、問題の捉え方、どれも出鱈目。
批判は、憶測やら類推やらで的外れなのばっか。
ALS患者の安楽死事件と絡めるとか、こじつけもいいとこ。


野田さんの発言は、悪気がなかったとしても“命の選別”を想起させてしまったのでしょう」(全国紙記者)だって、

想起は受け手の問題で、想起させた者にはまったく責任はない。


《なにより実名だして影響力ある人が全世界に発信していることがいけないのでは?? 私たちが数人で話すのとは訳が違う……》

元々の発言はそんな話では全然ない。
これを優生思想に絡めて考えるなんて飛躍が過ぎる。連想ゲームでしかない。
だから悪いのは連想して非難してる人達。非難してる人達全員が悪い。
その方向でこの記事を書いて全世界に発信している匿名の誰かさんは特に悪い。

 

私はこういう記事こそが激しく叩かれるべきだと思う。

叩いたからって止めはしないだろうけど、こういう記事を書いたものを叩くという行為を、もっともっと皆でやるべきだと思う。

権利には義務を無理やりにでも

権利には義務が伴う。
ただし、元々のこれは同一人物が権利と義務を同時に負うという話ではない。
ある人の権利を満たす為には、別の人がその人の権利を満たすという義務を負わなければならないということ。そうでなければ権利は権利として成立しない。

 

たとえば教育を受ける権利。
誰かがこれを主張したなら、別の誰かがこの者に教育を受けさせねばならない。
これは、別の誰かがこの者に教育を受けさせる義務を負うということ。
このように、誰かが義務を負わねば権利は成り立たない。

 

なので、個人単位でみると、権利だけ主張して義務を負わないことは可能。

だけど、こんな者の為に義務を負う、負い続けるということを人は良しとするか。

出来るか。現実には、義務となれば嫌々ながらでもやることにはなるのだけど、

だから出来はするのだけど、
嫌だよね。嫌々やるとしても、不満が溜まるよね。いずれ耐えられない程に。
耐えられ無くなれば、続けられない。つまり、義務を負い続けることが出来ない。

 

これでは権利が認められなくなってしまうので、
義務を負う者が不満を貯めない方法を考えねばならない。
で、出てくるのが、一人の人間が、権利と同時に同等の義務を負うという形。
これなら、義務を負ってあげてもいいかなと思えて、不満を溜めなくて済むようになる。これで、一人の人間が権利と同時に義務を負うという話になる。一般的に言われる形になる。


権利と義務を同時に負うというのは、必然ではない。

放っておいてもそうなるというものではない。
なので、権利を与えるとともに、義務を無理やりにでも負わせねばならない。

負うのが嫌だとなったら、負わないとなったら、権利の剥奪もしなければならない。
権利を剥奪出来ないなら、無理やりにでも義務を負わせなければならない。
何もせず権利だけを主張することは、決して許してはならない。
権利を成り立たせる為に。

 

 

以前にも同じこと書いてるけど、、、

差別で悪いのは誰か

社会的に問題にされる、いわゆる差別には二種類ある

相手を見下しての差別と、相手を嫌っての差別


相手を見下しての差別は、
相手を自分より下に見て、バカにした態度を取るような差別。
先進国の人間が後進国の人間に対して、
高学歴者が低学歴者に対して、
高所得者低所得者に対して、
男が女に対して、やりがちな差別。

この手の差別が起こる原因は、差別する側の無知や視野の狭さ。
なので、差別する側への教育によって改善出来る。
差別される側に対しては、特別やることは何もない。


相手を嫌っての差別は、
相手の思想やら宗教やら、言動やら態度やらが嫌いで、

その気持ちが表に現れた言動が、嫌われてる側に差別だと受け取られるもの。

この手の差別が起こる原因は、差別してる側が、相手を嫌っているということ。
この場合に考えるべきは、何故相手を嫌っているか。

 

一つ目。嫌われてる側が、嫌われるだけのことをやってる場合。

 

二つ目。嫌われてる側は別に悪くなく、嫌ってる側に原因があって嫌ってる場合。
文化的な善悪の基準の違いとか、単純に誤解とか、逆恨みとか妬みとか、、

 

一つ目は、被差別側に原因がある。
被差別側に対し、嫌われるようなことをやめさせるというのが解決方法になる。
差別してるとされてる側に対しては何もしなくていい。
せいぜい、被差別側の改善を認めて過去のことを許すことを求めるくらい。
もちろん被差別側の改善が成った後で。まずは被差別側の改善。これが第一。

 

二つ目は、差別側に原因がある。差別側に対して、何がしかの対処をする必要がある。
嫌う理由は色々考えられるので、とりあえず何がしかとだけしておく。
重要なのは、差別側に対して行うということ。被差別側に対しては何もない。


現実には一つ目と二つ目の合わせ技。相手を嫌っての差別は、
成り行きとして必然的に両者が互いに嫌うという形になる。
なので、両者に対して態度や考えを改めることを求めることになる。
一方のみが悪いわけでは決してない。

差別側のみを非難して問題を解決しようとするのは間違ったやり方。

被差別側に肩入れして、被差別側の蛮行に目を瞑るのも間違ったやり方。

問題は両方にあるのに、一方のみ悪者にしたら問題が余計にこじれてしまう。

 

 

 

「社会的に問題にされる、いわゆる差別」と回りくどく書いたのは、社会で問題にされてる差別と、本当に問題とすべき差別は違うと私が考えているから。
そもそもいけないとされていた差別は“謂れなき差別”。差別するに値する理由が無いのに差別をするのはいけないというのが本来。差別的に扱われる理由があっての差別は必然的なもので、悪いものではない。差別するに値する相当な理由がある以上、やめさせられるようなものでもない。でもまあ今の社会ではそれも一緒くたに差別とされてるので、仕方なく差別として扱って、「いわゆる差別」とした。私個人は、相手を嫌っての差別は無くさねばならない差別だとは全然思わない。まったく悪いとは思わない。それぞれのケースで嫌うのが妥当かどうかは別の問題だけど。

怒っている者の要求は通すな

怒りの表明はいいと思う。許すべきだと思う。
怒りは人の感情で、人の感情を封じるようなことはすべきでないと思う。
だけど、その怒りの表明と共に行う要求までは通してはいけない。
謝罪しろとか、賠償しろとか、何々しろとか。
その言い分が正当なものであるかどうかは別問題なのだから。

 

 

怒りの表明というのは、怒っていることを伝えることが目的です。自分は怒っているんだ、本気で怒っているんだ、そのことをわかってくれというのが怒りを表す目的です。
その証拠に、本気で怒っているんだってことが相手に伝われば、それだけで怒りの感情は収まります。怒っている相手に伝わらないとしても、他の誰かがその怒りをわかってくれれば、怒りが収まって落ち着いたりもします。

 

そんな怒りの表明ですから、それに対してやるべきは、何故そんなに怒っているのか、どういうことがあって怒っているのか、どれほどに怒っているのか、そういったことを真摯に聞いてあげることです。そうすれば怒りは収まります。不満やらは残るでしょうが、怒りの感情は収まります。怒っている相手に対しては、怒りをわかってあげることが一番の対処です。それで十分です。

 

で、怒りの感情を収めて落ち着かせて、その後で、話を聞いて明らかとなった怒らせる原因の何かをどうするかという次の段階に進みます。これは怒りとは別の、次の段階の話です。誰かが怒っているからどうこうという話ではありません。

この段階では怒った方、怒らせた方、どちらが悪いかも不明です。怒っている側の勘違いだったり考え違いだったりで、怒った側の方が悪いということだって有り得ます。怒らせた方が悪いとしても、それほどに怒るようなことではないという場合もあります。怒ってる側が絶対に正しいわけではありません。ですので、怒ってる者の言い分認めて要求をそのまま通すなんてことはしてはいけません。怒ってる者の圧力に負けて認めるなんてことは絶対にしてはいけません。

 


もし、怒ってる者の言い分を認め、要求も認めてしまったら、怒っている者は自分を正しいと思い、以後他者の意見を受け付けなくなります。自分の要求は当然通るものと思い、要求が通らないと、より激しく怒るようになります。怒りを利用して自身の要求を通そうとするようにもなるでしょう。そして怒りまくる。
手に負えなくなります。安易に言い分認めてはいけません。要求通させてはいけません。


言い分を認めるのは、要求を認めるのは、怒りが収まって落ち着いて話が出来るようになってからです。落ち着いて話が出来るようになって、その言い分が正当なもので、要求が妥当なものであった時に、それを認めればいいのです。まだ怒りが収まってない段階でする話ではありません。