差別で悪いのは誰か

社会的に問題にされる、いわゆる差別には二種類ある

相手を見下しての差別と、相手を嫌っての差別


相手を見下しての差別は、
相手を自分より下に見て、バカにした態度を取るような差別。
先進国の人間が後進国の人間に対して、
高学歴者が低学歴者に対して、
高所得者低所得者に対して、
男が女に対して、やりがちな差別。

この手の差別が起こる原因は、差別する側の無知や視野の狭さ。
なので、差別する側への教育によって改善出来る。
差別される側に対しては、特別やることは何もない。


相手を嫌っての差別は、
相手の思想やら宗教やら、言動やら態度やらが嫌いで、

その気持ちが表に現れた言動が、嫌われてる側に差別だと受け取られるもの。

この手の差別が起こる原因は、差別してる側が、相手を嫌っているということ。
この場合に考えるべきは、何故相手を嫌っているか。

 

一つ目。嫌われてる側が、嫌われるだけのことをやってる場合。

 

二つ目。嫌われてる側は別に悪くなく、嫌ってる側に原因があって嫌ってる場合。
文化的な善悪の基準の違いとか、単純に誤解とか、逆恨みとか妬みとか、、

 

一つ目は、被差別側に原因がある。
被差別側に対し、嫌われるようなことをやめさせるというのが解決方法になる。
差別してるとされてる側に対しては何もしなくていい。
せいぜい、被差別側の改善を認めて過去のことを許すことを求めるくらい。
もちろん被差別側の改善が成った後で。まずは被差別側の改善。これが第一。

 

二つ目は、差別側に原因がある。差別側に対して、何がしかの対処をする必要がある。
嫌う理由は色々考えられるので、とりあえず何がしかとだけしておく。
重要なのは、差別側に対して行うということ。被差別側に対しては何もない。


現実には一つ目と二つ目の合わせ技。相手を嫌っての差別は、
成り行きとして必然的に両者が互いに嫌うという形になる。
なので、両者に対して態度や考えを改めることを求めることになる。
一方のみが悪いわけでは決してない。

差別側のみを非難して問題を解決しようとするのは間違ったやり方。

被差別側に肩入れして、被差別側の蛮行に目を瞑るのも間違ったやり方。

問題は両方にあるのに、一方のみ悪者にしたら問題が余計にこじれてしまう。

 

 

 

「社会的に問題にされる、いわゆる差別」と回りくどく書いたのは、社会で問題にされてる差別と、本当に問題とすべき差別は違うと私が考えているから。
そもそもいけないとされていた差別は“謂れなき差別”。差別するに値する理由が無いのに差別をするのはいけないというのが本来。差別的に扱われる理由があっての差別は必然的なもので、悪いものではない。差別するに値する相当な理由がある以上、やめさせられるようなものでもない。でもまあ今の社会ではそれも一緒くたに差別とされてるので、仕方なく差別として扱って、「いわゆる差別」とした。私個人は、相手を嫌っての差別は無くさねばならない差別だとは全然思わない。まったく悪いとは思わない。それぞれのケースで嫌うのが妥当かどうかは別の問題だけど。