新しい社会の為に

社会的に新しいことをやるには、複数同時並行の試行錯誤が必要で、
その実行を妨げるのは、不公平への抵抗感と失敗に対する不寛容です。
試行錯誤には失敗がつきものです。社会システムの失敗は不公平を生みます。
不公平失敗をやむを得ないものとして許し、不公平となることを許容する姿勢が、
社会を変革する為には何より重要ではないかと考えます。

今こそ改憲論議を

多くの人が時間持て余してる今、議論しまくって国民投票までしてしまえばいい。
こんなことが出来るのは今しかない。今なら通常時より遥かに多くの時間を憲法を考えることに使える。今こそ改憲論議を。そして改憲を。


コロナ対策は、全員が全力を尽くして考えるようなものではない。良く知らない素人があーだこーだ考えても良い答えが出るわきゃなく、無意味で無駄。そこはそれぞれの専門家に任せればいい。そうすれば、コロナ対策に関わる専門家以外は別の事が出来る。政治家だってそう。全員が全員、コロナ対策で動く必要はない。行政府に居たとしてもそう。基本は分業。本当にコロナ対策に関わってる政治家なんて限られてる。大半がやってるフリしてるだけ。そんな無駄なこと止めて意味あることをすべき。コロナ対策以外にもやることは山ほどある。改憲もその一つ。今こそすべき。

幸せの為に

人が幸せと感じて生きるには、承認欲求が満たされるのはとても大事なこと。

身近な10人から存在価値を認められれば、承認欲求は十分に満たされる。
10人が5人でもそこそこ満たされるし、特別心を寄せる相手ならば1人でも満たされたりもするのだけど、とりあえず10人。10人程度から存在価値を認められる人間になれれば、自分に自信を持って生きていける。一般的な個々人はこのレベルを目指せばいい。それで十分だし、これにしたってそうそう簡単に達成出来る目標でもない。

 


世の中には誰からも存在価値を認められない皆からの嫌われ者が沢山いる。単に利用価値でしか認められてない実のところ嫌われ者ってのも更に沢山いる。そこら中にいる。自分に向けられる嫌悪を日々感じて生きるその者達には心の平穏がない。幸せでもないだろう。そうならないことはとても大事。

 

人は全知全能ではない

人間は誰であれ完全ではない。全知でもない。
よって未来を完全に読めない。

だから大まかな計画しか立てられない。
その大まかな計画の通りにも行かない。
よって、適時のコントロールが必要。
コントロールとは、上げ下げとか増減とか強弱とか。
決して一方向ではない。


これだけで世の中のかなりの意見を論破出来る気がする。。。

モラハラの問題を考える前に 3

これらは悪いことなのか?

被害を受けたと感じている人にとっての加害者、
この加害者とされてる人は本当に悪いのか?

以下の場合はどうなのか、考えてみて欲しい。

 


■好き嫌い
好きはいいとして、嫌いな場合は扱いが嫌いな人に向けてのものとなる。
嫌そうな顔を向けるとか、挨拶がぶっきらぼうだとかしないとか、
無視するとか、悪口言うとか、、、

嫌いなんだから必然的にそうなる。好きな人と同じように扱うことなど出来ない。
これらはいけないことなのか?
嫌いな人であっても好きな人と同じように扱わねばいけないのか?

そうしないのは悪いことなのか?


もっというと、嫌いになってはいけないのか?
個人の好き嫌いを他者から強要されねばならないのか?
極めて個人的であるはずの好き嫌いという感情を、外部から規制するのか?
嫌いな人に向けての対応を禁じるというのはそういうこと。
私は禁じてはいけないと思う。その感情を表に出すことを含めて。
たとえ相手が嫌がろうと。

 嫌なら自身の嫌われる要素を正すとか、嫌われないようにするとか、
嫌われていることを受け入れて仕方ないと諦めるとか、やりようはいくらでもある。
にも拘らず、人の好き嫌いそのものを規制しようとするのか?

 

 

■能力差故の扱いの差
出来る者と出来ない者とでは扱いが変わってくる。
出来る者なら扱いは良いものになる。
出来ない者は、その扱いは当然悪いものになる。

これは好き嫌いの場合と違い、出来ないからといって特別悪い扱いをしていいわけではないと思うが、それにしても出来る者と同じ扱いには出来ない。出来ない者を信頼して出来る者と同じ仕事はさせられないし、褒めるより注意や指導が多くなるし、時には叱責もすることにならざるを得ない。
これは悪いことなのか? 仮にこれを悪いとした場合、では同じ扱いにするのか?
同じ扱いに出来るのか? 

扱いの差が能力故のものであれば、それが妥当なものであることを条件に許すべきだと私は思うが、如何?

 


■被害妄想
加害者側とされる者が特別なことを何もしていないのに、
被害者側が自身の思い込みで相手が悪いことをしていると思い込み、
被害を訴える被害妄想。
原因はほぼ全面的に被害者側にある。
悪いのは被害者だと思うが如何。


さて、これらにおいて加害者とされる側は悪いのだろうか?

被害妄想のケースは極端だとは思うけど、本気でこれで加害者責める奴らがいるからね。一応書いといた。

 


このシリーズは織田信成氏のモラハラ提訴を見て考えたものなのだけど、織田信成氏のブログを読む限り、濱田コーチの行動は嫌いな人に対してとる態度でしかないように思う。「最初は全く目線を合わせず挨拶を無視され、私の見える場所から陰口を叩かれ、私が近くを通ると話すのをやめるような行動が続きました。」って、これどう思う?

これをモラハラ扱いして禁じていいの? 私たちは感情のある人間なんですよ。

モラハラの問題を考える前に 2

嫌がる程度も人による

 

■嫌かどうかは考え方次第

どの程度嫌がるかは、その人の考え方による。
相手から何がしかの行為をされた時、
その相手の行為を悪い行為だと思えば、やられるのは凄く嫌だけど、
それを普通の行為だと思えば、大して気にならない程度にしか嫌だと思わない。
基本的にはこれで、通常はこれに程度が加味され、程度に応じて嫌さが加減される。

 


〇世間一般の基準で悪いかどうか

世間的に少々なら許されていると思う行為で、少々であるなら

嫌であっても仕方ないと割り切り、大して嫌だと思わない。後にも引かない。
世間的に度を過ぎたら許されないと思う行為で、度を過ぎてると思えば、
仕方ないなどと思わず、凄く嫌だと感じるし、後々まで尾を引く。
どの程度嫌かは、相手の行為がどの程度かによる。
ただし、その行為を一切ダメと思っているなら、程度は関係なくなる。
一切ダメと思っている行為をしてる時点で凄く嫌だと感じる。
これはもうちょっとだけでもダメで、ちょっとだけでも凄く嫌だと感じる。
この嫌は考え方からくる嫌悪感で、物理的な被害の有無はまったく関係ない。


上記はどれも、やられる側の人が自身でどのように思っているかが基準になってる。
「世間的に」とは書いているけど、実際の世間一般の基準とは別の、
その人自身が世間的にそうなんだと思い込んでるものが基準。
人によって、実際の世間一般の基準とはずれている。
中には極端にずれてる人もいる。

 

 

〇自身の考え的に悪いかどうか

自分の考えとして、こうすべきというものがあり、
これに照らして悪い行為だと思えば、嫌だと思う。
世間一般では許されている行為であっても、悪い行為だと感じて嫌だと思う。
逆に世間一般で良くないとされてる行為でも、悪いと思わなければ嫌だと思わない。

こちらは自分の考えだから個々人で相当にずれてる。
いわゆる世間一般とも大きくずれてる。
同じ人などいないと断言出来るほどにバラバラ。

 

 

■「嫌かどうか」ではなく、「許せるかどうか」

「嫌」で書いてきたけど、実のところは“許せるかどうか”。
許せるとなれば少々嫌だと感じても別段気にならない。
だから、通常なら嫌と感じることでも、イケメンなら嫌でないとか、
愛しい我が子のすることなら嫌ではないとかいうことになる。

良くある、ブ男なら絶対嫌だけど、イケメンなら嫌でもないってのは、
ブ男なら許せないけど、イケメンなら許してもいいと思えるってこと。
行為自体同じでも、許せるかどうかで扱いが変わり、嫌かどうかも変わる。

 


■その時の状況次第
おおらかな気分でいる時は、少々のことは許せる。少々のことでは嫌だと思わない。
気が立っている時は、ほんの些細な事が許せない。ちょっとしたことで凄く嫌だと感じる。気分次第。人とはそういうもの。

そして、人は置かれた状況で気分が変わる。
単に気分だけなら一時のものと自身で自覚出来るけど、置かれた状況からくる気分は、
長期間継続するものなので、自身に自覚がない。自覚がないので、自分自身の気分によるものだとの認識なく、嫌だと思う。それがたとえ全然気にするようなものでなくとも、悪い行為でなくとも、嫌だと思い、相手に怒りを抱く。

 

■その人の強さ、耐性次第

単純に、強い人は少々のことではビクともしない。

弱い人はちょっとしたことでダメージを受ける。

受け流すのが上手い人は嫌なことに対する耐性が高い。

受け流せず正面から受け止めてしまう人は耐性が低い。

どの程度嫌がるかはこれらで変わる。

 

 

こんな感じで、ある行為を嫌だと思うかどうか、どの程度に嫌だと思うかは
その人次第のところが多分にある。その人の考え方や状況次第で全然変わってくる。

上記の観点を考えずに被害者側の言い分だけで物事を判断したら間違える。
被害者が嫌がってるからというだけでモラハラとしてしまうのは早すぎる。