ネットウヨクの分析に補足

私は自身をネットウヨクと自認してます。そんな私が今回目にしたサヨクネットウヨクの分析をネットウヨク自身の見方で補足してみようと思って書いたのが今回のエントリーです。サヨク側がネットウヨクをより正確に捉えてくれることを願ってのものであり、反論としては書いてないし、挑戦的な書き方も避けてます。反発せずに読んで参考に使ってもらいたいと思います。「サヨク」だけはネットウヨク側からの呼び方として許容を願います。この言い方も避けたいのですが、ネットウヨクとの対比となるとやはりこの言葉以外にないと思うので。ご容赦を願います。
サヨク側に反発されないようサヨク側に擦り寄ってネットウヨクが悪く見えるよう書いてるところもあります。これについてはネットウヨク側にご容赦を願います。


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私が目にしたサヨク側のネットウヨクの分析はこちら


村野瀬玲奈の秘書課広報室
ネトウヨ」メンタリティを分析するヒントを求めて

http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-665.html


に引用されてたこちら


サブカル雑食手帳
ネット右翼」のメンタリティ

http://yakenn2002.seesaa.net/article/89095069.html


で引用された季刊「現代の理論」誌2008年新春号(特集 日本国家の品格を問う)に掲載されている能川元一氏の「『ネット右翼』の道徳概念システム」という論文の引用部分。


>保守派・右派が『強さ』に高い道徳的価値を認めているという仮説は・・・


ネットウヨクは『強さ』の価値は認めてるけどその価値が道徳的なものだと思ってるわけではない。強さは様々な要素の全体に対する比重を決めるもので、道徳的な力が強ければ社会が道徳的な方向に傾き、不道徳な力が強ければ社会が不道徳的な方向に傾くという風に働くもので、自らの望む方向に社会を傾けたいのでその方向での強さを求めてるだけ。望む方向の逆をいくサヨクの『強さ』を求めることなど当然なく、『強さ』だけ切り出して「高い優先順位を与える」という見方は正確ではない。保守派・右派がどんな『強さ』を求めてるのかを見て、『強さ』ではなく「どんな」の方に着目して欲しいと思う。
(正直言ってこの論文で「道徳的」をどんな意味で使ってるのかよくわからない。通常の意味の道徳でないのは確かで、私が書いてることは的外れかもしれない。)



>『強さ』に高い優先順位を与えるモラル概念システムは、国家が『悪』に対して『力』で立ち向かうことを要求する。


前半はともかく、後半の「国家が『悪』に対して『力』で立ち向かうことを要求する」は正にその通り。ネットウヨクは国にそれを求めてる。それこそが国の存在価値くらいに思ってる。個々人で対処出来るような小さな悪は個々人で対処するにしても、大きな悪となると到底個人では対処出来ない。この個人で対処出来ない悪に国の力で立ち向かって欲しいとネットウヨクは願ってる。
逆にサヨク側が国に求めるような福祉的な社会保障はほとんど求めない。そういったものは個人の、或いは家族や地域住民の相互扶助ですべきもので、国民側の個々の努力で対処可能であり、国民側の個々の努力で行うべきと考えてる。だからこういったものは国には求めない。求めるのは保護を求める側の努力。自分の努力で何とかしろと突き放す。ウヨクとサヨクの大きく違うところ。冷たいとか薄情だとか思われても仕方ない面がある。



>無垢な犯罪被害者は庇護されるべき対象であり、犯罪という『悪』には厳罰という『力』で対抗すべきである。


後半はその通り。力でもって対処し、厳罰を与えよと考えてる。もちろん悪の度合いに応じてであり、何でもかんでも厳罰でというわけではないが。


前半は微妙に違う。まず、ネットウヨクの視線は主に犯罪者の方に注がれ犯罪被害者にはあまり向いてない。聞けば犯罪被害者は庇護されるべき対象と言うだろうけど、言うだけで関心はほとんど向いてない。関心のほとんどが『悪』の方に向いてる。だから『悪』にどう対処し、どう処理するかが考えの中心となる。そしてこれが犯罪被害者に対しての厳しさとして表れもする。


ネットウヨクは犯罪被害者だからといって無条件に犯罪被害者に味方しない。まず初めに『悪』を防ぐ努力をしてたかどうかを問う。『悪』を防ぐ努力とは犯罪に合わない用心。個人レベルで出来る防衛策を取っていたのかどうか。
防衛策を取らないというのは犯罪者を利する行為。だから防衛策を取らない犯罪被害者は犯罪の発生に加担するものとみなし、犯罪者同様に非難する。犯罪被害者だからといって庇護などしない。犯罪者同様に叩く。


次に問うのが犯罪に立ち向かうかどうか。
被害に遭ったが泣き寝入ったとなると、犯罪者は罪に問われもせず堂々世間を歩けるわけでこれも犯罪者を利する行為として非難の対象となる。脅迫に対して金品等差し出したとなるとこれは犯罪者をより強くする行為で犯罪者を利する行為として非難の対象となる。いずれも実質的な共犯者として犯罪者同様に叩く。


よってネットウヨクが犯罪被害者の味方をするのは個人レベルの用心では防げない犯罪に遭い、尚且つその犯罪に泣き寝入ったり屈したりしない場合だけに限られる。「無垢な犯罪被害者は庇護されるべき対象」ではあるが、無垢なだけでは庇護されるべき対象とはならない。
犯罪被害者に対するこの基準は戦争被害者に対しても同様に適用される。
結果ネットウヨクが被害者に味方するケースは相当に限られたものになり、大抵の場合ネットウヨクは被害者に追い討ちを掛ける存在となる。
サヨク側にはこの辺りが理解し難い酷い奴らと見えてるのだろうと思う。


>場合によっては戦争被害は被害者の『弱さ』の結果であり、被害者自身が責任を負わねばならないものである(この点は、性犯罪の被害者が被害者の『道徳的な弱さ』の結果であり、それゆえ被害者も責任を負わねばならない、という犠牲者非難に通じる)。


ネットウヨクには犯罪被害者の被った被害はどう足掻こうと取り返せるものでないという認識がある。物品であれば取り返すことも可能で取り返して元に戻すことを考えるが、命や身体的な棄損、感情的な痛み、時間等は取り返せるものでないと認識してる。被害は取り返すことが不可能で諦める他ない(『しょうがない』)ものと考える。よって、否応無く被害者自身が受け止めなければならないものと考える。「諦めろ」がネットウヨクの本音。なので被害を訴える声を結構冷たくあしらったりもする。
サヨク側はなんて冷たい奴らなんだと思うのだろう。


被害は否応無く被害者自身が受け止めなければならないものと考える故に犯罪被害者の被害分の補償がされなければならないという考えは無い。また、取り返すのが不可能なものと考えてるので損失分を取り返そうとする行為は損失分を他から奪ってきて埋め合わせようとする行為と見る。この「他から奪って」は『悪』。
『悪』を為そうとする者にネットウヨクは厳しい。犯罪被害者だからといって『悪』を為すことは許さない。被害者であることを免罪符として認めはしない。被害者であろうと非難し叩く。


被害に目を向け、被害者はもちろん加害者の中にも被害者の要素を見出して庇護しようとするサヨク
犯罪に目を向け、犯罪者はもちろん被害者の中にも犯罪誘引の要素を見出して叩くウヨク。
重視し注目するものの違いがこの違いを生んでるのだと私は考える。



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以下はsadatajpのネットウヨクとしての立場を離れた私個人としてのネットウヨクに対する感想。


『悪』を為そうとする者にネットウヨクは厳しい。
被害者であることを免罪符として認めないのと同様に、
『悪』に立ち向かうことも免罪符として認めない傾向もある。
ネットウヨクはとにかく『悪』が大嫌い。
『悪』に対して多分に潔癖症的な面を持つ。
はっきり潔癖症と言っていいかもしれない。
この潔癖症的な面は反感を買う要素として働き、
普通の人を遠ざけネットウヨク同士での争いをも呼び込む。
互いの協力を妨げるものともなってる。
この辺り、ネットウヨクとしての立場を離れた私個人として改善を願ってる。
「もうちょっと寛容になれよ、お前ら」とネットウヨク側に言いたかったりしてる。




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ネットウヨクの側にいる者の見方として村野瀬玲奈さん、下等遊民さん他サヨクの皆さんに是非「ネトウヨ」メンタリティを分析するヒントとして使ってもらいたいと思います。

ここで書いてる『悪』はネットウヨクの基準で考えるところの悪であり、異なる基準を持つ者から見たら全然悪でなくネットウヨクこそが悪だってことになりもするのだろうけど、ネットウヨク側から書いたものだということを考慮して読んで下さることをお願いします。

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