情報と言論の関係

これは、
http://d.hatena.ne.jp/sadatajp/20100522/1274530926
ここのコメント欄の『当エントリーで取り上げた私の「情報は言論の一部」に関するブログ主の反論はお話になりません。情報のない言論など考えられません。・・・』への返信です。
※野菜炒めにたとえて説明してます。ちゃんと豚肉や野菜、野菜炒めを頭に思い浮かべて読むこと。


◇  ◇  ◇  ◇  ◇  

■情報と言論の関係は、食材と料理の関係



豚肉・キャベツ・たまねぎ・人参・もやし
これを材料に人の手を掛けて、野菜炒めを作った。
前者は食材。後者は料理。食材と料理は別のもの。


食材無しの野菜炒めは有り得ない。確かに。
では食材は野菜炒めか? その一部か? そこで使った食材は野菜炒めの一部になってるけど、料理の材料一括りにした言い方で表される『食材』と、食材を基に人が作った野菜炒め等を一括りにした『料理』は別のもの。


>情報のない言論など考えられません。


食材のない料理など考えられない。確かに。
それでもやっぱり食材と料理は別のもの。『料理』が『食材』を元にしているからといって、『食材』が『料理』の中に含まれてしまったりはしない。



食材には腐っていないことが求められる。腐ったものはいけない。食材が腐ってたら、それを材料に作った料理は食べられないので。


情報は事実に則した正しいものである必要がある。虚偽情報はいけない、情報が虚偽なら、それを基に考えた意見や思想は間違ったものになるので。


よって、
腐った食材は排除しなければならない。
虚偽の情報は排除しなければならない。


「しなければならない」だからこれは禁止。腐った食材は禁止。虚偽の情報は禁止。こうでなくてはならない。食べられないので。間違ったものになるので。



一方料理の方は何でもありの自由で構わない。
どんな作り方をしても構わない。上手い不味いはあっても、作り方の如何で食べてはいけないものにはならない。作り方次第では「とても食べられない!」ってことになるかもしれないが、その時は食べるのをやめればいいだけで、その作り方はいけないといって禁止する必要はない。


意見も何でもありの自由で構わない。
どんな考え方をしても構わない。考え方次第では「とても賛同出来ない!」ってことになるかもしれないが、その時は賛同しなければいいだけで、その考え方はいけないといって禁止する必要はない。


不味い料理は食べてもらえない。禁止しなくとも「不味い!」と言われて排除される。賛同が得られない考え方は受け入れてもらえない。禁止しなくとも非難を受けて排除される。
でも、
「食べ慣れてみたら案外美味いかも」「うん、いいかも」「いけるじゃん!」ってことになることもある。「やってみたら案外いいかも」「うん、いいかも」「いいじゃん、この考え方」ってことになることもある。こうなるかもしれないので、どんな料理も、どんな考え方も、禁止はしてはいけない。これが、言論の自由や思想の自由の考え方。


■まとめ
食材と料理は別のもの
情報と意見(言論)は別のもの。


腐った食材は禁止。虚偽の情報は禁止。
一方料理は自由。考え方も自由。


自由だけど、批判はされるし排除もされる。
禁止まではしないので自由だというだけ。


食材と料理、情報と意見、それぞれ扱いを変えなければならない。一方は禁じることが必要だし、他方は禁じてはいけない。このように扱いを変えなければならないものを、同じものとして扱ってはいけない。


以上。 情報と言論が別物だという意味がわかったか?




人気blogランキングランキングバナー