「ダメなものはダメ」って、ホントにそうか?

「ダメなものはダメ」
かつて社会党土井たか子が好んで口にした言葉。


やってはいけないことには、やってはいけないという何かの理由が必ずある。
理由は必ずあるのだけど、人は案外その理由をわかってない。
そのわかってない理由を、改めて考えてみることは中々に有意義である。


多くの場合は、その理由を再認識することで、決してやるまいと強く思う。
でも、時に「あれ?」と思うことも多々ある。
本当はダメではないのではないか、むしろすべきなのではないか。
そういうものも、実は沢山ある。


たとえば「揉めてはいけない」。
本当にそうか? 悪いことしてる人がいるのに、揉めるの恐れて黙ってていいのか?


たとえば「決められたルールには従うべき」。
本当にそうか? 何時でもどこでもどんな場合でもそうか?
そのルールがどんなものでもそうか?
そのルールを決めたのが誰であってもそうか?


独裁者は、その独裁体制を維持する為に、まずルールを作る。
そのルールは、民が独裁者に逆らえないようにすることを目的に作られる。
だから、そのルールに従う限り民は独裁者には逆らえない。
そんな状況で「決められたルールには従うべき」を杓子定規に適用すると、
民は永遠に独裁者の奴隷とならざるを得ない。
これはいいことなのだろうか?
本当に「決められたルールには従うべき」なのだろうか?
「ならぬことはならぬ」は本当にそうか?


「決められたルールには従うべき」には、実は前提となる条件がある。
その条件が満たされていない場合は「決められたルールには従うべき」は成り立たない。
他のものもそう。どれにも実は前提となる条件がある。
その前提条件を考えないで口にする「ダメなものはダメ」は、単なる思考停止でしかない。