誰もが利己主義だという詭弁


自身の望みが、自身の利益(幸せ)の追及だというのが利己主義
自身の望みが、他者の利益(幸せ)の追及だというのが利他主義
自身の望みが、より多くの人のより多くの利益だというのが功利主義
自身の望みが、全体の利益の追及だというのが全体主義
自身の望みが、民族の利益の追及(繁栄)だというのが民族主義
自身の望みが、国家の利益の追及(繁栄)だというのが国家主義


全部「自分の望み」。
どれも「自分の望み」を追い求めるのだから、どれも利己主義だというのは、利己主義者の自己正当化の為の詭弁。○○主義というのは「自身の望みが」を捉えてのものではなく、その望みが何かを捉えてのもの。自身の望みが、自身の幸せの追及だという者だけが利己主義。




書き方を変えて再度。
自分の「やりたいこと」が、自分の利益追求なら利己主義。
自分の「やりたいこと」が、他者の利益追求なら利他主義
自分の「やりたいこと」が、民族の利益追求なら民族主義
自分の「やりたいこと」が、国家の利益追求なら国家主義


どれも自分がやりたいことをやってるから利己主義だというのは詭弁。
自分のやりたいことをやるというのは利己主義ではない。
「やりたいこと」が、自分の利益追求だという者だけが利己主義。



嫌われるのは「自分さえ良ければ」と考えてる奴。激しい非難に遭うのもこいつ。こいつが利己主義だといって非難される。上記の中で「自分さえ良ければ」なのは、自身の望みが自身の幸せの追及だという者、「やりたいこと」が、自分の利益追求だという者。それ以外は「自分さえ良ければ」ではなく、非難される者ではない。
全部一緒にして利己主義だということにしてしまうと「自分さえ良ければ」の奴を非難出来なくなる。これを狙って利己主義な奴はこの手の詭弁を弄する。誰もが利己主義だなんてのは、非難を避けようとする利己主義な奴の詭弁。誤魔化されてはいけない。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  

利己主義の者とそうでない者のとの違いは、自分自身を犠牲にすることを拒むか受け入れるか。自分以外にとっての利益を追求する場合、自分自身を犠牲にすることが必要になる場面が必ず出てくる。その場合・・・


自身の望みが、他者の利益(幸せ)の追及なら、
他者の為に自分を犠牲にする。自分の望みを叶える為に。


自身の望みが、全体の利益の追及なら、
全体の為に自分を犠牲にする。自分の望みを叶える為に。


自身の望みが、民族の利益の追及(繁栄)なら、
民族の為に自分を犠牲にする。自分の望みを叶える為に。


自身の望みが、国家の利益の追及(繁栄)なら、
国家の為に自分を犠牲にする。自分の望みを叶える為に。


しかし、自身の望みが自身の利益(幸せ)の追及の場合だけは別。
「自分の為に自分を犠牲にする。自分の望みを叶える為に」は成り立たない。
自分を犠牲にしたのでは、自身の利益(幸せ)の追及にならない。だから自分を犠牲にはしない。自分を犠牲にするくらいなら他の者を犠牲にする。これが「自分さえ良ければ」で「他人を犠牲にする」と言われる行動になる。利己主義は、このような他との違いを持つ特殊なもの。こういう違いがあるから特別嫌われる。誰もが利己主義だなんてとんでもない。




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おまけで、も一つの利己主義の詭弁。

「自分の利益を考える場合、自分の周りのことも考えなければならない。自分の利益を考える者は周りのこともしっかり考える。だから利己主義は悪くない。」

なんて理屈もある。これも詭弁。自分に得になるかどうかを基準にして周りのことを考えるのと、周りにとって得になるかどうかを基準にして周りのことを考えるのとで、同じ答えが出るはずがない。目的が違えば答えも違ってくる。詭弁。


それ以前に、周りのことも考えるなら、もうそれは利己主義じゃない。これを利己主義だというのが詭弁。


更にそれ以前に、周りのことを考えるってのが嘘。考えているという者にどの程度考えてるか聞いてみればいい。ほとんど考えちゃいない。こんな詭弁や嘘に誤魔化されないように。