高評価に値しない不当な高収入


おもいっきり単純なモデルで考えます。
月に総額で200万給与が出せる会社があるとします。

例1 従業員5人に30万払い、経営者は50万得てる。
例2 従業員5人に15万払い、経営者は125万得てる。

この二つの例を考えます。この場合、各経営者の年収はこうなります。

例1の経営者の年収は600万。
例2の経営者の年収は1500万。

例2の経営者の年収は1千万越えです。
世間の評価は年収の高い例1の経営者の方が上となります。
例1と例2の経営者の違いは従業員の給与を如何に抑え込んだかだけです。
これで例2の経営者は高い評価を得る資格があるのでしょうか?
私は無いと思います。むしろ悪と評価されるべきと考えます。

この例2の経営者の年収1500万も、正当なものとして評価する必要はないと考えます。
例2の経営者が、この1500万を「自分が稼いだお金」と主張することを、
その権利を主張することを、正当なものとして認める必要はないと考えます。


もちろん、従業員に十分な給与を払った上での年収1500万は高評価に値すると考えます。
高収入というだけで高い評価は出来ないという話です。また、「自分が稼いだお金」という主張を、無条件に正当なものとして認めることは出来ないという話です。

 

お金は、人を働かせる為のもの


生きることがどの程度楽に出来るかは、その社会の富の量で決まる。
社会の富は、人々の労働によって生み出される。

人々が生きやすい、より良い社会を作るには、
人々には働いてもらわねばならない。
(もちろんその労働は、富を増やす方向のものでなければならない)
その為の仕組みの一つがお金。


お金は、人を働かせる為のもの。

お金は生きていく為に必要となる衣食住等を賄うのに必要なもので、
お金を手に入れる為に、人々には働くことが求められ、人々は働く。

お金の存在は、人々を働かせる為の仕組みとして機能している。


人々を働かせる為のものとしてお金を考えた時、
その機能を十分に発揮させるには、人々が長く働き続けるだけの金額が、
労働の対価として人々に支払われる必要がある。
金額が少ないと、生きていけなくなり、働けない。
辛うじて生きていけるという金額では、働く余力が無くなり働けない。
自分一人生きて働けるという金額もまだ足りない。
病気や老齢化で体力的に働けなくなったら、そこで終わってしまう。
人々を長く働き続けさせるには、次世代を生み育てるだけの金額も必要となる。
それだけの金額を、人々が労働の対価として手に入れられるようにしなければならない。
こうして初めて、人々が働き続けることが出来て、社会をより豊かなものにしていくことが出来る。

 

これが出来なければ、必要なだけのお金を人々に与えることが出来なければ、
社会は貧しくなる。生きることが難しい社会に変わっていく。


まとめ
社会を豊かにしたいなら、衰退させたくないなら、
労働の対価として十分なお金を人々に与えられる仕組みにしなければならない。

 

 

今の日本では、多くの人が自身が辛うじて生きていけるという金額で働くことを強いられている。社会が貧しくなっていくのは当然の結果。

 

企業と国の違い

企業の負担は、国と比べ遥かに少ない。
守ろうと考えるのは、株主と経営者、せいぜい社員まで。
下請け以下、企業の外のことは始めから考えない。
経営者、社員にしても企業に害を成すと思えば企業の外に出して終わりとする。
もっと言えば、企業自体を清算して終わらせるという選択肢も持っている。
守ることを考えると言ってもこの程度でしかない。
また、考えると言っても基本的には金銭的なもののみ。
それに生活の質に関わることとして労働環境が加わるくらい。
それを自身が選別して中に入れた経営者と社員にのみ与える。これが企業の負担するもの。


一方、国の負担するものはどうか。
国が守ろうと考えるのは国民全員。どんなに負担となる者であろうと除外出来ない。
その身体生命。その身体生命財産、および健康で文化的な生活。
また、その為に領地領海の保全整備もしなければならない。
こういったことを義務として負っており、守るのを止めることは出来ない。
(守ろうとしても守れないという、能力的に不可能な場合は当然ながら別)
これだけのものを国は負担している。



国は企業と比べ、遥かに多くの負担を追っている。それも、逃げられない義務として負ってる。
国はそういう存在である。一方、企業は自分のことだけ考えて身勝手に振る舞っている存在である。
こういう違いを考慮していない、国と企業を並べての批評は的外れである。




負担が多い分、国は企業より格上である。遥かに格上である。
企業は国に偉そうに言える立場にない。要求出来る立場にない。
政治家も国民も、企業のそういう振舞いを許してはならない。

累進課税は公平な課税である

まずは単純なモデルでの現実の確認。


賞金2。
これを巡って能力値1と能力値2が競えば、勝つのは能力値2。
そして、能力値2が賞金総取りして、賞金収入の比率は0:2
能力値では、能力値2は能力値1の2倍でしかないのに、
収入では、能力値2は能力値1に対して無限大の比率になる。


勝者が全取りの、個々が対決するタイプの競争社会だとこうなる。


これでは能力値1は生きていけない。生きる為にどうにかしないといけない。
賞金収入2を得た能力値2。この収入の一部を、糧を必要とする能力値1に分け与えることで、能力値1を自分の為に使うことが出来る。能力値2は能力値1を雇い入れる。
無収入の能力値1はこれを受ける他無い。


分ける収入を仮に0.5とする。
これで能力値2が収入1.5、能力値1が収入0.5。
そして能力値2と能力値1の収入比率は、3:1。


この能力値2(能力値1を加え、保有能力値3)が、別の能力値1と賞金2を巡って対決。
勝つのは、能力値2(保有能力値3)。


能力値2(保有能力値3)のトータル獲得賞金は1.5+2で3.5。
能力値1の1は0.5、能力値1の2は0。


能力値比率3:1:1が、収入比率3.5:0.5:0。。。



こういった競争を重ねると、能力値比率では2:1でしかないのに、
収入比率で100:1にも1000:1にも成り得る。


この収入差は公平か? 人がこれを公平だと感じるか?


「正当な競争の結果だから、公平だ!」という人もいるが、
多くの人がそのように感じるだろうか?


私が思うに、多くの人が公平だと感じるのは、
能力値比率が2:1なら収入比率も2:1となる状態ではないかと思う。
しかしながら、競争の結果で成り行きに任せると、
能力値の差は、その差に見合わない極端な収入差を招くことになる。
それを人々が公平だとして許容出来る差に収めるには何かしらの調整が必要で、
その方法として使えるのが累進課税


例えば、
能力値比率2:1で収入比率3:1なら、
前者に50%後者に25%の税を掛けて、1.5:0.75とする。これで2:1。
能力値比率2:1で収入比率10:1なら前者に85%後者に25%の税で、1.5:0.75として、2:1。
こんな感じ。


10倍の収入を評価してその分だけ差を付けようとすれば、85%を80%にして、
2:0.75とすれば、収入比率で約2.6:1。最初の10倍程ではないが、
能力値の差に多少色を付けた差を付けられたことになる。
こうした調整で、獲得賞金差を評価した収入差を作ることも出来る。
このように考えて作るのが累進課税の税率。
80%の税なんて税率高すぎてとんでもないと思うだろうが、
これは放っておけば付いてしまうとんでもない獲得賞金差を調整する為にそうなるだけの話。
課税した結果は、個々の能力値に見合う程度に差の付いた個々の収入となる。
とんでもなくなどない妥当な値になる。



注)ここで言う能力値は、単純な潜在的に持っている能力だけではなく、その能力を発揮する力も含むものとする。基礎的な能力が同じでも、怠け者と頑張り屋さんでは頑張り屋さんの方が値は上といった感じ。




以下余談。


累進課税による調整無しの収入を許すと、成り行きの必然でとんでもない資産を持つ超強力な人達が誕生する。この超強力な人達に、累進課税による調整を受けてる人達は太刀打ち出来ない。一部の人達だけに累進課税による調整を行って、調整無しの人達を放置すると、調整無しの人達の天下になってしまう。累進課税の導入が難しいのはこの為。


現実問題、累進課税による調整を行えるのは国内の人間にだけ。
国外の人間に累進課税による調整は行えない。
なので、累進課税による調整を行ってしまうと、国内の人間は一方的に蹂躙される。
よって、調整されない国外の人間に対する対策を行わねばならない。
その対策は、国外の人間に対して個人でなく国が対峙する方法しかないと思う。
国は個人間の競争に積極的に関与しなければならない。
国がルールを作って、超強力な国外の個人の力を抑え、
調整を受けてる国内の個人が戦えるようにしなければならない。
個人の自由な競争に国が関与してはならないなんて言葉を真に受けて、
関与を躊躇ってはならない。そうして、国内の人間を国外の人間から守らなければならない。
これが累進課税導入の条件。

累進課税の正当化

累進課税はなぜ正当化できるのか?
 日本で超累進課税が復活する可能性とは?
 [橘玲の世界投資見聞録]」
http://diamond.jp/articles/-/180308


まず、
個人は個人主義、国は全体主義。これは、それぞれの存在意義からの必然。
そして、個人主義全体主義では、モノの見方・考え方が異なる。故に、出てくる答えは違う。



累進課税は、全体主義で考えた場合の個々のバランスの調整方法。
全体の中でのバランスを考えない個人主義では正当化出来ない。


全体主義で考えれば、累進課税の発想は自然と出てくるもので、その理屈は難しくない。
他方、個人主義で正当化出来るものではないので、
個人主義的思考でこれを正当化しようとすると屁理屈こねるしかなくなり、
無茶苦茶なこじつけをした超難解な理屈となる。
もちろん筋も通らないし、正しくもない。考えるだけ無駄。


結論。
個人主義的思考では、累進課税は正当化出来ない。

ベーシックインカムの世界

どんな状況であろうと、人間社会は平等にはならない。


AIの発展の結果としてのベーシックインカムは、
おそらく、スクールカーストのような上下関係を生み出す。
学生時代、それも学力があまり関係しなかった小中学校辺りの。
上位に来るのは、小中学でスクールカースト上位となる者。
下位に来るのは、小中学でスクールカースト下位となる者。


学生時代の短い一時でなく、一生をそのカーストの中で生きることになる。
それはそれで悪くないけど、そんな楽でもないよ、きっと。

正義は勝つ か?

[1+1=2]対[1+1=3]


どちらが正しいとされるか?
理論的に正しいのは言うまでもなく[1+1=2]。
しかし、[1+1=3]が正しいと信じる人が多ければ、
社会的には[1+1=3]が正しいとされる。


[1+1=3]が正しいと信じる人が実際には少なかったとしても、
声の大きな人が[1+1=3]が正しいと言ったり、
権威あると社会的に認められている人が[1+1=3]が正しいと言ったりすれば、
社会的には[1+1=3]が正しいとされる。


そうなると、[1+1=3]を正しいと考える人が、[1+1=2]と主張する人を、
馬鹿だアホだ低能だと罵ることで抑え込むようになり、
[1+1=3]が正しいという社会的な認識を覆すのが難しくなる。


覆すのが難しいとなると、その状態は長く続くことになる。
長く続けば、昔から正しいとされてきた考えだとされて、より覆すのが難しくなる。
時間が経てば経つほど、[1+1=3]は社会的により強固な正義となっていく。



理論的には、間違いなく[1+1=2]が正しい。
これは、理論的に認識出来る頭があれば、ちょっと考えればわかる。
そんなに賢くなくても、この程度のことは現実をありのままに見ればわかる。
「ちょっと考えれば」「現実をありのままに見れば」
逆に言うと、
ちっとも考えなければわからない。
現実をありのまま見ようとしなければ、わからない。
こういう人は、わからないので、[1+1=3]を主張する人に対抗出来ない。
もっとも、考えないくらいだから元々興味もなく、一々対抗する気もない。
だから、明らかな間違いながら、[1+1=3]がそのまま生きながらえることになる。


また、1+1を2でなく3としてると、沢山の矛盾が出てくる。
この矛盾をおかしいと思えば、[1+1=3]の間違いにも気づけるのだろうけど、
[1+1=3]を正しいと思い込んでる人は、この矛盾を超難解な理論を編み出して、
矛盾はないと結論付ける。[1+1=3]を正しいとする為に。


もちろんこの超難解な理論は、理論的におかしい。
理論的におかしいものをおかしくないと捻じ曲げるのだから、超絶的に難解。
普通に考えたら理解出来ない、超絶的に難解なものとなる。
そして、この難解な理論を使って[1+1=3]の正しさを主張し始める。
難解な理論の否定は、元が難解故にわかりにくいものにならざるを得ない。
おかしいと思いつつも、どうおかしいか説明出来ず、否定することが出来ず、
超難解な理論と共に[1+1=3]がそのまま生きながらえることになる。
明らかな間違いであることが簡単にわかるはずの[1+1=3]が、
社会的に正しいこととされ続ける。
[1+1=2]の正義は、ここまで勝てていない。負けている。



ここまでが、今現在の現実を観察した結果を[1+1]の例えで記したもの。
さて、そんな状態から[1+1=3]は間違いで、正しいのは[1+1=2]だと、
社会的に認識されるように持っていくようにするにはどうすればいいのだろうか?