「何故そうなってるか、わけわからん」って・・・

人間社会のシステムの話。

 

今現在何故そうなっているのかを、まず理解する。
その上で、今及び未来でどうするかを考える。

これが基本。だと私は思ってる。


なので、社会のシステムをどうするかを考えてる時に、「何故そうなってるか、わけわからん」とか「馬鹿げてる」とか「アホ」だとか、そういう一刀両断する言葉が出てくるのは問題外だと思う。これらの言葉、何故そうなっているかを全然理解していない証拠だし、考える気もない証拠。

 

物事は、必ず何がしかの理由があってそうなってる。それを肯定的に考えている人がいて、全力で維持し続けようとしてる人が結構な数いる。そうするだけの利点も実際にある。だからこそ今現在ある。少数者のみにとって利点があるってだけかもしれないし、大したことない利点でしかないかもしれないけど、必ずある。それを理解しようとする努力は、すべきものだと思う。考えさえすれば誰でもわかるというわけではないので、絶対理解しろ、理解するまで変えることを考えるななんてことは言わないが、努力はして欲しいと思う。わけわからんのに「わけわからん」で切り捨てることはしないで欲しいと思う。上から目線で馬鹿にしてそれをいうのはやめて欲しい。

 


雑談レベルで言うのは全然構わない。雑談レベルで一々深く考えることないだろうし、そんなこと期待しない。が、真面目に考える場では止めて欲しい。上から目線で馬鹿にしてそれをいうのはやめて欲しい。わからんのに偉そうにしてるのは滑稽です。。。

 

求めるのは快感。それと、不快の解消

自身が置かれた状況が良い人は、不快事項はあまりないので主に快感を求める。
快感は慣れる。より上の快感を果てしなく求め続ける。
快感を求める行為は自発的なもので、時間の許す限り、体力の許す限り果てしなく。
人は何かを求めて行動してる時は楽しい。忙しくしつつも楽しい。


自身が置かれた状況が悪い人は、不快事項ばかりなので、不快の解消を求める。
不快は解消出来ればそこで一旦終わる。ほっとして、欲求は消える。
不快の解消は自発的なものでなく、苦しいから仕方なく。
仕方なくやってただけだから、不快が消えたらもうやらない。
不快から脱すると心地良い。何もしなくても、不快でないというだけで満足出来る。
平凡な日常を淡々と過ごすことが、この上なく満足。

 

人が求めるのは満足で、快感又は不快の解消でそれは得られる。

どちらでも得られる。どちらが良いとか悪いとかなんてない。
どちらを求めるかはその人の置かれた状況次第。

 

誰もが快感を求めるわけではない。
快感を求めて動かないのは不思議なことではない。
快感を求めなくとも、何もしなくとも、不快でさえなければ人は十分満足出来る。
傍からどう見えようと、当人はそれで満足してる。

 

 

 

余談:
不快でない現状に満足している人は多い。
もしかしたらほとんどの人がそうかもしれない。
そういう人は特別何かをしようとはしない。
しなくても満足なのだから、人に何を言われようと、しない。


出来ないからしないというのは別として、出来るのにやらないのはこれ。

それで良いなら良いのだけど、良くない場合も多々ある。
こういう場合、快感を餌に何かをさせようとしても効果はない。
何かをさせようとするなら強制しかない。
満足している人を無理やり不快な状況に追い込んで、
嫌々ながらでもやらざるを得なくさせる。
当然ながら当人の意思は無視して。
これしかない。それが出来ないなら何もさせられない。

 覚悟を持って、強い意志で強制する他ない。

企業と国の違い 切り捨て

企業レベルの話で国レベルのことを考えてはいけない。
国はどんなに出来の悪い人でも切り捨てて終わりには出来ないのだから。


これに納得なら以下は蛇足。読まなくていい。

 

問題ある人がいるとする。
企業と国はそれぞれこの人をどうするか。

企業はこの人を切り捨てて終わりに出来る。排除で問題解決と出来る。

国は、切り捨てられない。排除も出来ない。唯一、死刑での排除のみ可能。極めて少数の例外。基本的に、抱えたまま問題を解決していかねばならない。

 

企業
環境面の対処は考えるし、するが、結局のところ
悪いとこ直せ、良くなれ、という、変わることの要求。
ダメなら退職勧告。退職したら終わり。



全体に向かって意識改革を求めることで変えようとする。改善の為の個別対処はほとんど不可能で、特別悪い場合のみ個別に処罰や隔離で対処する。
ただし、隔離しても面倒は見なければならず、終わりには出来ない。かといって、最終的に良くするところまで持っていけるわけでもない。まったく良くならないかもしれない。それでもそのまま抱えておかねばならない。問題ある人が居続ける状態を前提に考えねばならない。


なので、ビジネス書でよくある、自己啓発的な
「こうしなさい」「これはしてはいけません」は、
企業レベルでは問題の解決策になり得るが、
国レベルでは解決策にならない。


ちなみに、個人レベルでも切り捨てて終わりに出来ない場合は同じ。
この場合に必要となる解決策は、問題ある人に対してどう対処するか。
切り捨てて終わるビジネス書は、この辺りあまり参考にならない。
国レベルのことを考える時は、誰も切り捨てないやり方を考えねばならない。

 

この違いで、各種問題の対処法が全然違ってくる。
企業レベルだとよく出てくる少数精鋭の方向での方策は、企業レベルだから良く見えるだけ。国レベルではまったくもって問題外。この手の解決策は考慮に値しない。どんなに出来が悪くても切り捨てでない方法を考えねばならない。

 

企業レベルでの笑い飛ばされるような無能なバカは、国レベルでは笑えない深刻な問題。バカにして笑い飛ばして終わりとしてては国レベルの考えは出来ない。

生産性向上とか

生産性向上とか、一人当たりGDPを上げるとか、

色々言い方はありますが、“国として”求めていくべきは、

人々が、どれだけの労働をして、その労働がどれだけ社会全体としての富の増加、

または毀損防止が成されたか。

 

で、その為に、

 

出来るだけ多くの人に働いてもらう為の、雇用創出とか失業率を下げるとかの就労状況改善。
働く人がより働けるような待遇改善。
人々の活動の基礎となる生活環境整備。
人々の活動を側面から支える医療等健康関連システムの整備。
更に、活動期間に制限のある労働者の入れ替えの為、出産子育て教育等を可能にする仕組み。

 

これらで労働量の維持又は増加を目指す。同時に、労働量を減らさない為に、

 

働く人を壊さないよう過剰労働禁止や労災防止対策等労働環境整備。
緊急事態に備えての警察・消防・救急等の整備。

 

これらで、有する労働力を最大限発揮される状況を作り出す。


また、その労働力がより有効に使われるよう特定の労働を推奨したり制限したり禁止したりして調節する。これによって、成された労働でより多くの富の増加を得る。


これが“国として”求めていくべきことで、多くの人々にとって歓迎出来る話。

 


企業レベルでの、人員減らして生産性向上を目指すような話は、国レベルではちっとも有難いものではない。なんたって国は低能力者でも面倒見続けなくてはならないのだから。切り捨てて終わりに出来ないのだから。

結局自分で判断せざるを得ないゴミの山

ネット上には、様々な発言がある。真逆の意見もある。そのまま、ある。
他者の批評やら意見やら受けて潰されたり修正されたりせず、
洗練も深化もせず、淘汰されることもなく、そのままの状態で存在し続ける。

そんな状態なので、人は、大量の情報を自分で漁って、自分で分析し、
自分なりの判断で答えを出さざるを得ない。
そして、自己完結の独り善がりの答えに辿り着いて終わり。

 

それをネット上に自分の意見として発言したとして、
何の反応もなかったり、一部から賛同を得たり賞賛されたり、
他の一部から批判されたり罵倒されたり。
色々あったり無かったりだけど、出した答えに影響はなく、そのままあり続ける。
自分の中にもネット上にも。

 

 

今のネットは、それぞれがそれぞれに得ている情報の中で、自己流に判断して発言しているに過ぎない意見が、大量にそのまま存在し続けてるだけのもの。どれが正しいなんてわからない。個人的に正しいと思い込むことしか出来ない。

 

私は、個人の意見が激しく非難を受けて潰されるという淘汰が起こる社会にしなくてはいけないと思う。
個人の意見を尊重するとか大間違い。悪いと思えば叩けばいいし、大勢が悪いと思うものなら叩き潰されて然るべき。もっと厳しくあるべきだと思う。

 

ゴミの山と化した今のネットは人々を賢くする道具にはなり得ない。

“課題”

まず人々が何を欲するか。

1、活動方向で、
  進歩・成長・発展等、課題克服を目指す行為。

2、休息方向で、
  心身の疲労回復、精神リフレッシュの為の、快感や快楽を得る目的の行為。

3、常時必要となる、
  栄養補給・睡眠等、生命維持の為の行為。

これらが人が欲求する行為で、これらの為に人が欲しいと思うものがニーズ。より良い社会を作る為に、社会を構成する個々人のこれらニーズを満たすことが目指される。


ここで考えねばならないのは、ニーズを満たせば満たすほど1のニーズを満たすことが難しくなること。何故なら1の肝は課題の存在だから。課題とはニーズの不足を如何に満たすかという問題で、問題が解決し不足してたニーズが満たされると、その分解決すべき課題が減ってしまう。課題は簡単なものから解決されていく。未解決な課題というのは徐々に難易度が高くなる。その結果、能力の低い者は課題に挑めなくなる。

 

課題に挑めなくなった者は、自身が生きてる意義を見出せなくなる。幸せを感じることが出来なくなる。あるいは、課題ではない課題や、実際には存在しない課題に挑み、自身の課題に挑む欲求を満たそうとする。後者は形はどうであれ課題に挑んでるのだからいいようなものだけど、この者は他者にとって迷惑な存在で、社会としてこれを良しとしていいかどうかは問題。

 


時間切れ、とりあえずここまで。
一足飛びに結論だけ書いとく。
課題を解決すれば良い社会になるってわけではないってこと。

生きがいとしての“課題”

人が生きがいを感じて生きられる社会に必要なのは課題。
そして、それに挑める社会環境。これらが存在する社会が、
人々が生きがいを感じて生きられる社会。

 

必要となる課題は、個々人の能力や適性に応じた多種多様な課題。
能力の高い者には難解な課題。低い者には低難度の課題。
個々の人々が挑もうという意欲を持てる高過ぎず低過ぎずの課題。

 

そういった課題が過不足なく存在する社会が、生きがいを感じられる社会。