安倍総理のインタビューに対する非難

安倍総理が軍の強制を認めたと思われたことは確かだろう。
反日勢力は安倍総理が責任を認めたと言いふらすだろう。
で、
右派が安倍総理が責任を認めてしまったと認めた事を非難すると、
人々は「本当に安倍総理は軍の強制を認めたのだな」と思う。


しかし、安倍総理のいう責任はそういった責任ではないと言い、
捻じ曲げて伝える事を防がなかったと非難するなら、
或いは誤解を招く言い方をしたと非難するなら、
回りくどい言い方で戦う事を避けたと非難するなら、
人々は安倍総理は軍の強制を認めたわけではないのか?」と疑問を抱く。



「本当に安倍総理は軍の強制を認めたのだな」と思えば
これで決定なんだと思いもうそれ以上知ろうとしなくなる。
関心を失いそれ以上話を聞こうとしてくれなくなる。


安倍総理は軍の強制を認めたわけではないのか?」と疑問に思えば、
では何なのだ?と好奇心を刺激する。
関心は継続し、もっと話を聞いてみようと思いもする。



反日勢力が「安倍総理が認めた」と歓喜し、
右派が「安倍総理が認めてしまった」と嘆けば
安倍総理が認めたのかどうかでは議論(言い合い)にはならない。
安倍総理が認めた事を前提とした話ばかりがされる事になり、
安倍総理が認めた事を前提とした話ばかりが耳に入るようになり、
認めた事が既成事実と認識されるようになる。


反日勢力が「安倍総理が認めた」と歓喜し、
右派が「安倍総理が認めたのは別のことだ」とそれを否定すれば
安倍総理が認めたのかどうかで激しい議論(言い合い)になる。
認めたという話と共に認めてないという話が何度も何度も繰り返しされることになる。
認めたという話と認めてないという話の両方が耳に入り、
認めたのかどうかが曖昧になる。
激しい議論(言い合い)の中で安倍総理が認めた責任が何かを説明していけば、
それも耳に入る事になり別の認識を持たれるようにもなる(なり得る)。

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安倍総理が軍の強制を認めたかのように報道されたのは確かだけど、
安倍総理の発言が軍の強制を認めたものでないのも確か。
安倍総理が軍の強制を認めたかのように言って非難するのは誤解を拡大強化し敵を利するばかり。
安倍総理への非難は

  • 誤解されるような言い回しをした事、
  • 間違った伝えられ方を防げなかった事、防ごうとしてない事、
  • 違うと抗議せず反日勢力との戦いを避けた事、

といった安倍総理が軍の強制を認めてない事が前提のものでなければいけない。
でないと既成事実化に貢献してしまう事になる。
安倍総理が軍の強制を認めてない事が前提の非難ならいくら激しくやっても構わない。
捻じ曲げられてしまったという話が広がるのでこれはいくらやっても構わない。
でも認めた事を前提とした非難は既成事実化に貢献してしまうのでやってはいけない。



多くの右派が既成事実化に貢献してしまってる。もっと考えて欲しい。
(もっとも本気で安倍総理が軍の強制を認めてしまったと思い込んでるのだろうけど)